「明日っから、オレ泊まりだからな。戸締まりしっかりしとけよ」
居間の壁に貼ってある大きなカレンダーに予定を書き込みながら、城之内は妹にそう言った。
「どこいくんだっけ?」
「伊豆大島。土産は椿油でいいのか?」
「なんでもいいよ。それより帰り、いつ?」
「のびなきゃ、月曜の予定。最悪、水曜には戻ってくる。ラジオ入ってるから」
「わかったわ」
「もう、あっちは泳げるみたいでさ、遊戯と遊ぶ約束してんだ。あと、宿に温泉ついてるって。楽しみだな」
そうですか。
聞いてもないのに、うれしそうに。
静香はため息をついて、おおぶりのバッグに荷物を詰め込んでいる兄を見つめた。水着どこだっけと、慌ただしくクローゼットを漁っている。
どうみても浮かれている。
らしくない。
あんな小さな子相手に嫉妬してる。
そんな自分も、らしくない。
兄が気を許すのは、自分だけだったのに。
「お兄ちゃんは、恋ってどう思う?」
「あー?」
面倒くさそうに城之内は返事をする。
「なによ。お前、好きな男でもできたの?」
――鈍感。
「わたしは、恋なんてしたくないわ」
あんな小学生相手に。
ああ、どうして恋になんて落ちるんだろう。
恋なんて無くなってしまえばいい。
*
羽田から、30分強で伊豆大島についた。飛行機は、日に往復2本しか出ていないらしい。あとは船が何本か出てるそうだ。
「ボク、帰りはジェットフォイルに乗りたいです!」
「なにそれ?」
「船です。すごいんですよ、ジェット噴射で水面を浮上して進むんです!」
遊戯が、目を輝かせながらうれしそうに語る。
今日の遊戯は、さわやかなブルーと白の服を着ていた。青いタイをきゅっと結んだセーラーカラーがよく似合っている。太いフレームの素通しの眼鏡が愛らしい。
七分丈の袖からすんなりと伸びた白い腕が、やけに眩しくみえる。
「そういうの好きなの?」
城之内は薄く色のついたサングラスを押し上げながら訊ねた。
「乗物はけっこう。あと船は、お父さんが乗ってるから好きです」
「遊戯のお父さんって、船と関係あるの?」
「船長さんです」
海外航路の客船の船長をやっているらしい。想像がまったくつかなくて「すごいもんだな」とだけ城之内は言った。
「あんまり会えないんですけどね」
数ヶ月に一度会えればいい方だという。
「さみしくない?」
「メールが来ますし、お母さんもおじーちゃんもいますから」
「オレも居るしな」
そういって『城之内 克也』のように笑ってやると、遊戯はうれしそうに「はい!」と返事をした。城之内はくしゃくしゃと遊戯の頭をかきまわしたあと、仲よく手をつないだ。
*
天候に恵まれて、撮影は順調に進んだ。ここでは『王国編』と呼ばれている連続したストーリーにあわせてロケを行った。公園を借りて緑の中でと、海岸沿いでの撮影だ。遊戯も城之内もほとんど出ずっぱりだった。
「うおー、もう汗だくだぜ」
ロケバスから降りて、城之内はわめいた。
宿に入るとクーラーが効いていて、ひとごこちつけた。
首の回りに巻いたタオルが汗でじっとりしている。身なりなんてかまってられなかった。どうせ周りも似たり寄ったりなのだ。日焼けしないでね、とメイクさんに日焼け止めを塗りたくられていたが、もうすでに落ちているだろう。夏はすずしく、冬はあたたかな海洋性気候のはずなのだが、いつも早朝や深夜にしているロケと異なり、昼間の直射日光の下で演技するのはきつかった。
「遊戯は平気か?」
「大丈夫です」
笑ってみせるが、さすがに疲れた顔がかくせない。この状況で二役だもんな。
「僕、さっさとお風呂はいろ〜っと」
遊戯と同じ二役の獏良 了が、お先にと手をひらひらさせながら、部屋に向かっていった。今回のロケでは表人格とよばれている方しか演じないが。
「オレらも行くか」
「はい」
鍵をうけとって、ふたりで部屋に向かう。城之内の部屋は、遊戯と一緒だった。一人部屋をもらうほどの立場ではないし、子供の遊戯をひとりにしておくのも憚られる。二人の仲の良さは、この撮影スタッフの間でもよく知られていたから、誰もそれを問題にすることはなかった。
(普通は、そうだよな)
二十歳の男が、小学生の男の子に手をだすわけがない。
それぐらいは、城之内にだって分かっている。
だから、何もしない。
*
「わぁ……!」
ごく普通の、ありがちな宿屋の部屋だったが、窓からは海が見えた。ちょうど日没の時間帯だった。遊戯はうれしそうに駆け寄ると、窓をがらりとあけて、身を乗り出して外を眺めた。
「落っこちるなよ」
「大丈夫です!」
城之内は遊戯のとなりに膝をついて、外を眺めた。いや、眺めたのは遊戯の横顔だった。幼い頬のラインのまるみにそって指を這わせたい。無垢なくちびるに口づけしたい。睫毛に舌をはわせ、涙を吸いとってみたい。
そんな欲望が存在すること自体、遊戯は知らないだろう。
どうして、こんな風に思うのだろう。
城之内は不思議だった。
たしかに、遊戯はかわいい。けれど、その愛らしさは保護するべきもので、欲望の対象にするものではない。それぐらいは城之内にだって判断はついた。何も知らない子供相手に欲望を押しつけるほど、モテないわけじゃない。寝てくれという女なら、それなりに居るのだ。
そういや、ここんとこ女抱いてねぇな。
興味もわかないが、処理ぐらいはしたほうがいいんだろう。性欲はしょせん本能だ。腹と同じだ。うまいマズイはあるものの、満たしてやれば、それで落ち着く。
「そろそろお風呂に、行きましょうか」
「そうだな。露天風呂があるんだっけ」
「ボク、温泉楽しみにしてました!」
城之内は、遊戯にほほえんだ。
自分が子供だったら、こんな劣情を持たないですむのに。
*
浴衣とタオルをもって、露天風呂に向かった。遊戯は、脱衣所でさっさと服を脱ぐと、はしゃぎながら、城之内を急かした。
「急がなくても、風呂は逃げないだろ」
「そうですけど」
遊戯の裸身から、城之内はさりげなく目をそらす。二次成長も来ていない遊戯は、まだ男とはとうてい言えないような幼い体付きをしていた。
淡い桃色の乳首は、乳輪も小さく、胸にちょっと色をのせてみただけのようだった。白い肌は窓からの光をあびて、半透明に輝いているように見える。すべらかな腹には、愛らしい形の臍があった。その下の小さなすんなりした性器は、陰毛もなく、まだ欲情も知らない形をしていた。
城之内は考えを散らすように、頭を振った。
脱衣所から出る。露天風呂は、思っていたよりも広かった。顔見知りが何人かすでに湯に浸かっていた。遊戯はたのしそうに手をふって答えた。
「プールみたいですよね」
「泳ぐなよ」
「泳ぎません!」
カランの前に座って、湯を浴びる。先に身体を洗ってさっぱりとしてから、湯につかろうと石けんを手にとったところで、となりにいた遊戯が泡立てたタオルを手に、声をかけてきた。
「ねぇねぇ、城之内さん」
「ん?」
「背中洗ってあげましょうか?」
「え!?」
「やってみたかったんです。いいでしょ?」
そういって返事も聞かずに、後ろに立った。元気よく城之内の背中を擦り始める。気恥ずかしさを気取られぬように、タオルを股間に置いて隠した。
「どうですか? 痛くないですか」
遊戯の華奢な手で、そんなに力が強くはいるわけもない。どちらかと言えばむずがゆい。城之内は、苦笑を堪えた。
「大丈夫だよ」
遊戯は満足したようで、ふんふんと口ずさみながら、丁寧に城之内の背中を流した。
「お父さんが帰ってきたときとか、一緒に風呂はいるの?」
「うーん、じーちゃんと、たまにかなぁ。でも最近はあんまり。あ、シャンプーもやりますか?」
「お願いしようかな」
遊戯は小さな手で泡をつくり、城之内の髪を丁寧に洗った。
「城之内さんの髪って、きれいな色ですよね。これって、地毛ですよね?」
「染めてないぜ。面倒だしな」
城之内も妹の静香も、全体的に色素が薄い。髪もブラウンに近いし、目もそうだった。「まっすぐだし、いいなぁ」
遊戯はかなりクセの強い髪をしている。寝癖もひどく、早朝のロケのときには、たまにもしゃもしゃと爆発したような遊戯の頭をみることができた。城之内は、ほっそりした遊戯の指が、自分の頭をたどる感覚を堪能した。
――もっと、ふれてほしいのに。
「次はオレの番な」
「はい」
先に遊戯の頭をあらってやる。
「シャンプーハット使わないで平気?」
「もう! 子供扱いしないでください!」
ぷーっとふくらませた頬を突きながら、悪いと謝る。遊戯はぎゅっと目をつぶった。露天風呂でよかったと城之内は思った。誰もいなかったら、歯止めが利かない。
湯で濡らして、シャンプーで洗っても、ピンと突っ立っている髪がおもしろい。城之内はわしわしと遊戯の頭をかき回した。
「そういや子供の頃、静香と一緒に銭湯行って、洗いっこしたことあるなぁ」
「いいなぁ、兄妹いるのって」
「そうか? 喧嘩もするぜ?」
「ボク、一人っ子だから、ちょっと憧れます」
「オレじゃ、ダメか?」
城之内は、まるで女に睦言をささやくように、遊戯の耳元に唇をよせた。遊戯は城之内の声に、ぴくんと震えた。耳にふきかけられた息がくすぐったいのと、その声が、遊戯の心に理解できない感情を植え付けたからだ。
むずがゆいような、胸がとくんと跳ねるような、そんな気持ちだ。
なんでだろう。こういう言い方が大人っぽいからなんだろうか。それとも、かっこいいから、なんだろうか。
「い、いえ。うれしいです」
頬を染めながら答えると、城之内の「おう、よかった」という明るい声が聞こえてくる。
あんな風に近寄られると、ちょっと照れてしまう。そうだ照れていたのだ、ボクは。遊戯はそう思った。まるで映画のラブシーンをみているときのように、気恥ずかしかったのだ。城之内さんは、なんとも思ってないんだろうけどさ。
「流すから、目つぶれよ」
「はーい」
城之内は、丁寧にシャンプーを流してやった。リンスもつけて、身体も洗う。遊戯の背中はちいさかった。おさない肌はきめ細かく、なめらかで、指先でふれるだけでも、官能的だった。女のような豊かな柔らかさはないのに、どこもかしこもまろやかさに溢れている。
細い首に、チョーカーの跡がうっすらと残っていた。泡立てた石けんで、そっと撫でてやる。
「痛くないか?」
「大丈夫です。でもちょっと痒くて。あせもになりやすいんですよね」
「夏に革製品はな。薬でももらってこようか?」
「お風呂でたらパウダーつけるから大丈夫です」
そっかと言いながら、城之内は遊戯の背中を目で堪能した。背骨のくぼみのひとつひとつに、唇でふれたい。ほそい首の、盆の窪に赤く吸い跡をつけてしまいたい。痛切にそう思った。
だが、これは別に欲情ではない。城之内は、そう思いこもうとした。美しい真珠にふれてみたいと思うような、咲き誇る花を愛でたいと思うような、そういう気持ちに近いものだ。幼い犬をなでまわして愛玩したい。ちいさなふっくらとした小鳥に手のひらの上の餌を与えたい。そういうものだ。そうすり替えようとした。すくなくとも、この時だけでも。
勃起して、おそいかかるわけにいかないもんな。
「もういいか、遊戯?」
「はい、大丈夫です」
遊戯はありがとうございましたと言って、隣のカランの前に戻ると、身体の前を洗っていた。城之内は深く息をついた後、冷たい水を手桶にためて、頭から何度もかぶった。