キスは、した。
 キスしか、してない。

 



「この楽屋、禁煙」
 声をかけてきた男をじろりとにらみつけ、咥えたかけた煙草を、城之内はくしゃりと握りつぶした。隣に座っていたヴァロンは、もったいねぇなと呟いた。
「いいだろ、別に」
「なんだよ、おっかねーな」そう言うわりに、ヴァロンはちっとも怯えてはいなかった。逆に興味を引かれたようだった。「ひさびさの生で、緊張してんのか?」
「リハで問題なかっただろ」
 城之内はいらいらと足踏みをした。目の前の鏡には、ひどいツラをした男がうつっていた。目がよくない。ぎらぎらとして、餓えてる犬のようだ。
 ヴァロンの隣に座ってベースを弄っていたアメルダが、くつくつと笑った。
「それだけ吠えられるなら、声の調子は悪く無さそうだな」
「じゃあ、理由は何よ。そのご機嫌斜めな理由」
 ヴァロンが、椅子をずりずりと引きずりながら、城之内の顔をのぞき込んだ。
「別に」
 城之内はそっけなく答えた。
「オレにも言えないわけ?」
 そんな風に聞かれても、困る。
 ヴァロンはこの業界での数少ない城之内の友人だった。出会ったのは仕事がきっかけだったが、一度殴り合いの大喧嘩をしてからは親しく付き合っている。向こうの方がこの業界じゃ先輩だし、顔も広い。それでもお互い腹の底を割った話ができる。そういう相手に仏頂面をみせるのは城之内も好きではない。好きな人間には優しくしたいのだ。それなのに、尖った気持ちが抑えられない。いや、ちがう。余裕がないのだ。
「あのゲームのドラマの方で、問題でもあんのか?」ヴァロンが聞いた。
「別に、そっちの仕事が不満ってわけじゃねーよ」
「じゃあ私生活かよ」
 城之内は答えなかった。
「性生活じゃないのか」
 アメルダの言葉に、城之内はびくりと反応した。
 ヴァロンはしばらく城之内を眺めた。何を考えているのか百面相みたいに、口を尖らせたり、眉を上下させているうちに、顔がだんだんと赤らんでくる。もぞもぞと手を擦り合わせたり、髪をむやみやたらと弄ったりしているのをみて、ヴァロンは口を開いた。
「女?」
「ちげーよ!」
 女だったら苦労するか。悩むか。バカヤロウ。城之内は心の中で叫んだ。相手が小学生のガキだなんて、いくらヴァロンが相手でも言えるわけがなかった。
 毎日毎日、小学生のガキの、遊戯のことで頭がいっぱいなんだ――なんて言えるか!



 あのとき、キスはしたのだ。
 遊戯のほうからしてもらった。
 そっと触れるだけのキスで、あんなに興奮するなんて思わなかった。
 やわらかかった。
 浴衣姿で、布団の上で、ふたりっきりだった。抱きしめた華奢な身体は、ほんとに小さくて、折れてしまいそうで、逆に城之内の情慾をそそった。身体の芯から、かっと熱いものがこみ上げてくる。そのまま押し倒して突っ込んでやりまくりたかった。誰の手もふれたことのないまっさらな身体に自分を打ち込んで汚してしまいたかった。正直、やりかけた。
 でも、出来なかった。
 布団に押し倒して、桃色の唇を何度も舐めた。
 吸いたい。あのちいさな舌をきゅっと吸い上げて、あまい声が聞きたい。
 そう思って顔を見つめると、遊戯に無邪気な顔で笑われた。
「くすぐったいですよ、城之内さん!」
 城之内の身体が硬直した。
 その声には暗い欲情なんてものはひとかけらも存在しなかった。
「だめですよ、口なんて舐めちゃ。お行儀わるいですよ」
 濡れちゃったと、無造作に自分の手の甲でぬぐっている。まるで犬に舐められた顔を拭いてるみたいだ。その仕草からも、羞恥心や欲望めいたものはまったく感じなかった。
 当然のことだ。遊戯にはわかっていないのだ。
 キスは知ってる。
 でも知らない。
 キスの先なんて、遊戯は知らない。

「キスっていうのは、こういう風にするんですよ」
 軽く音をたてて、また唇が触れた。
 ね、わかったでしょと、すこし得意げな、笑顔が目の前にある。
 この笑顔を壊すことが自分にできるわけがない。
 城之内は遊戯に気が付かれないように、心の中で嘆息した。
「あの、寝るとき、手つないでいいですか」
 もちろん、いいぜと答えるしかなかった。



 ませた子供なら、遊戯の年でもセックスは知ってるだろう。遊戯だって、何も知らないわけじゃないだろう。キスは分かっていたんだし。でもそれ以上は、まだよく分かってないのだ。少なくとも遊戯はそうだ。まだ自慰も知らないみたいだし。
 ああ、知らなくても突っ込めるよ。穴があれば突っ込めるよ。遊戯がどんなに泣こうが、喚こうが、叫ぼうが、あんなに小さいんだ。やろうと思えば犯れる。あの年で客とってるガキだっているだろ、いくらでも。
 だけど。
 城之内は頭を抱えた。
 ――できっこねぇだろ。
 そんな子供相手に、無理矢理セックスなんてできるわけがなかった。痛めつけたいわけではないのだ。欲情だけじゃないのだ。

 好きなのだ。

 年下だろうが、小学生だろうが、男だろうが、好きなのだ。認めてみれば単純なことだ。惚れているのだ。普通の恋人同士みたいに、いちゃいちゃしたいだけなのだ。キスをして、抱き合って、気持ちいいことをしたいだけなのだ。
 でも遊戯は、それを知らない。
 わからない。
 オレもそれを教えられない。
 淫行罪どころじゃすまない。



「今日誘った? ここ来んの? 楽屋連れてこいよ。お前の女、見てみたいし」
 ヴァロンはニヤニヤ笑いながら、城之内の反応を伺った。こいつがね。女なんてどーでもいいとか嘯(うそぶ)いてたくせにね。いや、どんな女なんだろう。これは見てみたい。見てみたいに決まってるじゃないか。
「相手だれだよ! 真崎杏子か? 孔雀舞か?」
「だから女じゃねーっつってんだろが!」
「隠すんじゃねぇよ! 別に穴兄弟になりてーつってるわけじゃねぇんだから!」
「なってたまるか! だいたい、まだキスしかしてぇねよ! 突っ込んでねぇっつの!」
 ヴァロンは勢いよく立ちあがった。がしりと城之内の肩に両手を置く。
「マジ! マジかよ! なによ、その純情! お前が!」
 城之内は、ヴァロンの手を勢いよく払って吠えた。
「うるせぇな! しょうがねぇだろ!」
 小学生相手に突っ込めるか!
「なんだよ、インポかよ!」
「立つよ! 毎日勃起してるよ! 雄々しくそそり立ってるよ!」
 ああ、くそ! 突っ込んじゃいけないのに、突っ込みてぇと思っちまうんだよ!
 できるわけねぇのに、毎日考えてしこってんだよ。
 このオレが。
 この欲求不満な気持ちがテメェにわかるか、この脳天気野郎!
「お前なんて、無駄に清らかさんのくせに! 知ってんだぞ、この童貞!」
「うっせぇ! 結婚前に突っ込める方がおかしいんだよ! ダーツ様だってそう仰ってる!」
 話に参加しないでいたアメルダが、やれやれとでもいうように首を振った。ふたりは気が付かずにヒートアップする。
「話し中、悪いんだが」
 低い男の声がした。ドラム担当のラフェールだった。彼はこのメンツの中では一番の年上でリーダー格の巨躯の落ち着いた男だった。ヴァロンと城之内はお互い顔を見合わせた。 ラフェールは珍しく照れたように頭を掻き、手にした白い四角い紙を城之内に差し出した。城之内はそれをうけとって、しげしげとながめた。
「色紙?」
 ラフェールはうなずいた。
「よければ、武藤くんにサインをもらいたいんだ。弟と妹がファンなんでな」
「なんで遊戯が?」
「客席にいるのを見たんでな」
「嘘ッ!」
 城之内は目を丸くした。今日のことは伝えてないはずだ。親同伴ならともかく、ライブハウスは小学生の子供がひとりで来る場所じゃない。しかも夜だ。あわてて、客席をチェックしに行こうとする城之内の腕を、アメルダが掴んだ。
「なんだよ!」
 城之内はがなった。
「もう一枚たのむ」
 アメルダは冷静な声で言った。
「何!?」
「うちの弟もファンなんだよ」
 そういうとアメルダは鞄の中からサインブックを取りだした。



「なんだか、ドキドキするよね!」
 遊戯はとなりに座っている母親に声をかけた。
 なにせ生まれて初めての体験なのだ。これまで共演したひとのコンサートやお芝居を見に行ったことはある。学校でも観劇しにいったことがある。だけど、こういう大人っぽいところに来るのは遊戯には初めての体験だった。胸が高鳴る。
「ママに感謝するのよ?」
「うん!」
 城之内のシークレットライブがあるという話を聞きつけてきたのは、遊戯の母だった。もともと城之内のファンだったのは、母親の方なのだ。一緒に見ているうちに、いつの間にか遊戯も好きになっていた。ドラマで共演することがわかったときは、親子で手をとりあって大喜びしたものだ。
(でも、ママにも言えない)
 ボクは城之内さんの恋人なのだ。
 本当は母親にも、学校の友人にも、共演してる仲のいい子たちにも、みんなに言いたくてたまらなかったけれど、さすがに口にはできなかった。報道されちゃったら困るし。怒られるの、やだし。
 誰も知らないって、どきどきする。
 遊戯は高いスツールに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら周りをながめた。城之内が出演するという広告は一切打たれていないし、アナウンスもないのだが、母がどこからともなく聞きつけてきたように、たくさんの女性たちが城之内を見に来たようだった。みんな着飾って、きれいで、大人にみえる。ステージの前の方、立ち見のエリアはもう人が一杯だ。フロアの照明が落とされると、ホールが期待感で埋まる。
 何人かステージに出てきた。
「レトゥロワムスカテールだわ! すごいわ、ゴージャスだわ!」
「なにそれ?」
 遊戯は首をかしげた。母は「遊戯だってダーツ様ぐらい知ってるでしょ?」と答えた。その名前は遊戯にも聞き覚えがあった。母の若い頃からいる有名なスター歌手だ。歌い手としてだけではなく、作曲家としても著名で、最近ではそちらの方の仕事も多い。
「あのひとたちは、ダーツ様のステージをサポートしてるひとたちなのよ。彼らだけでもアルバム出してるんだけど」
「ふぅん」
「城之内くんはダーツ様に曲を書いてもらってたから、きっとその縁ね。ああ、ダーツ様来てるかしら!」
 母はきょろきょろと当たりを見回すが、それっぽい人物は見あたらなかった。ドラムの男が、スティックを鳴らす。ライトの光が白くステージを照らしだす。
 そこに城之内が現れた。