◆2



 カチャカチャと陶器の触れ合う小気味のいい音がした。それから、なにかをこぽこぽと注いでる音がしたあと、がやがやと話し合う声が聞こえた。
「紅茶にはシュークリームだよねー」
「オレとしてはキームンがいいんだけど。なんで日東のティーバッグなのさ。いやね、別にね日東に恨みがあるわけじゃないよ。日本人向けの味だし。でも今日はキームンの気分なわけでさ。できればシュークリームよりも飲茶のほうがいいわけ。中華料理好きだし。これは本田君の好みなの?」
「オレは眠い」
 遊戯は目をさました。目の前には、長くて大きなテーブルがあった。白いリネンのテーブルかけがかかっていて、その上にはお茶のポットやティーカップがたくさん並んでいる。シュークリームも大皿に山のように積まれていた。テーブルはパーティがひらけるほど巨大なのに、座っているのはたった三人だけだった。
「目が覚めたみたいだね」
「エクレアも嫌いじゃないんだけどね」
「オレは眠い」
 テーブルについていたのは、シルクハットをかぶり礼装に身に包んだ御伽と、ボーダーシャツを着てにこにこ笑っている獏良と、眠そうに目をこすっている本田だった。本田は以前のようにフンドシにウサギ耳をつけている。
「本田くん!」遊戯は叫んだ。「寒くないの?」
「いや、別に」本田は首を振った。「寝かせておいてくれ。この世界にあまり首を突っ込みたくないんだ」
 遊戯の返事を待たずに、本田は机につっぷした。軽いいびきが聞こえてくる。
「それより、シュークリームはどう?」
 獏良は遊戯に勧めた。御伽が丁寧な手つきで紅茶をいれる。ポットからは日東のティーバッグのタグが見えていた。シュークリームもヒロタだった。
「どこでも、いつでも同じ味が食べられるというのは、とても大切なことだよ」
 おごそかに獏良が告げた。
「変化は望まないわけだ」と御伽。
「平穏無事な生活のほうが好きだな」と獏良は返した。「ボクはあんまりチャレンジとか、そういうこと好きじゃないんだ。面倒だしね。遊戯くんはどう思う?」
 遊戯は、戸惑った。青いエプロンドレスの裾をひっぱりながら答える。
「ボクも、目立たないし、地味だし、落ち着いた生活のほうが好きかなぁ……」
「嘘はよくないよ、嘘は」と御伽がステッキをふりかざした。目にいたいほど白い襟が長い黒髪によく映えている。
「別に嘘は言ってないもん」
「でも恋をしてるじゃない」御伽が追求した。
「恋!」本田がカッ!と眼を開いて、一声叫んだ。
「恋はひとを変え、人生を変える」と獏良が神妙な顔で、シュークリームをもぐもぐと頬張りながら、託宣した。
「運命を変える」御伽がちらりと遊戯を横目でみながら続けた。「実際、変わったみたいだしね」
「冗談じゃない!」遊戯は机をバシンとたたいた。テーブルの上にあった白い磁器がかちゃんと音をたてた。「ボクは、もううんざりなんだ! 面倒なんだ! なんで恋なんかしなくちゃいけないんだよ!」
 もういやだ。こんな気持ちをもてあますのなんて。
 できるものなら、ちょきんとそんなもの切り取ってしまいたい。
「ほんとに?」御伽がたずねた。
「ほんとだよ」遊戯が答えた。
 御伽は、細い器用そうな指で、自分のあごを軽く撫でた。それから言った。
「恋は草津のお湯でもお医者様でも直せない。でも切って無くしてしまうことはできる」
「どうやって?」遊戯は聞いた。
「ハートの女王さまに切ってもらえばいい」
 三人は異口同音にいった。



 カチャカチャと陶器の触れ合う小気味のいい音が、遠くから聞こえた。
 遊戯は目が覚めた。
「……あれ……?」
 起きあがると、ひたいに置いてあったぬれタオルがぽとりと落ちた。拾い上げて、きょろきょろとあたりを見回す。
 飾りっ気のない実用性一辺倒の部屋だった。一方の壁にはロッカーが並んでいて、ぺたぺたとメモらしいものが張ってある。部屋の隅には、シンプルな応接セットが置いてあり、遊戯はその黒革のソファに寝かされていた。外の方から、ひとの声が聞こえる。オーダーはいりますとか、お待たせしましたとか、そういったセリフだった。
 どこかの店みたいだけど、なんでボクがここに?
「気が付いた?」
 黒髪のハンサムな男のひとが顔をのぞきこんできた。遊戯はあわてて立ちあがった。
「ああ、ごめんね。気にしないで寝てて、寝てて」
 にこやかに笑いながら、遊戯の肩を押してソファに座らせる。遊戯はそのまま、すとんと座り、仕立てのいいダークスーツを着た細身の青年にたずねた。
「ここは……?」
「僕の店」
「おみせ?」
 遊戯はオウム返しに答えた。
「ケンカに巻き込まれたんだって? かわいい顔がだいなしだよね」
 そう言われてから、遊戯はようやく思い出した。そうだ、城之内くんに殴られたんだ。頬に手をあてると、ガーゼで手当をしたあとがあった。
「城之内くんのお友だちなんでしょ?」
「あ、あの……」
「すぐ、呼んできてあげるから」
 軽やかな足取りで部屋をでていく。ぱたんと閉められたドアを見て、遊戯はため息をついた。
 どうすればいいんだろう。
 何も思いつかなかった。
 考えたくなかった。
 太ももが、じんじんと痛んだ。腰のあたりだ。城之内に殴られて転んだときにぶつけたらしい。打ち身になってるのだろう。革のパンツにアスファルトに擦れた跡があった。そっと撫でてみる。
「いたいな……」
 なんで、あんなこと言っちゃったんだろう。
 なんで、好きになっちゃったんだろう。
 ドアがきしむ音がした。遊戯は、はっと顔をあげた。
「城之内くん」
 城之内は暗い目で、遊戯を見た。まともに見られなくて、遊戯はうつむいた。
「わるかった」
「何が?」
 顔をあげずに、遊戯はたずねた。
「殴って」
 遊戯は首を振った。言葉がでなかった。
 重苦しい沈黙だけが、部屋に横たわっていた。息をするのさえ苦しいと遊戯は思った。だけど、このまま、ここにこうしてるわけにもいかない。城之内くんはバイト中なんだし。これ以上、彼に負担をかけたくはない。遊戯はきゅっと唇を噛んだ。
「迷惑かけてごめん。あの、もうボク帰るね。あと、これ」
 遊戯はがさごそと自分のパンツのポケットをさぐった。財布からお金を取りだして城之内に渡す。
「少ないかもしんないけど、お店に。迷惑料だから」
「いらねぇよ」
 ぱしんとそっけなく手を弾かれて、遊戯は泣きたくなった。
「だけど」
「オレが勝手に連れてきただけだろ!」
 睨みつけられる。
 獣が噛みつくような目付きだった。遊戯は目をそらせなかった。いっそのこと、このままばりばりと喰われてしまえばいいのに。食べられて無くなっちゃえばいいのに。自分も。こんな気持ちも。
「んな顔、すんなよ」城之内はがりがりときれいに撫でつけていた髪をかき回した。ウェイター姿の城之内は、いつもよりもずっと大人に見えた。
「もうちょいで、バイト終わるから。そしたら送ってく」
「ボクは……」
「いいな?」
 遊戯に反論の余地はなかった。こくりとうなずく。
 城之内はここで待ってろよと言うと、また店の方へ戻っていった。



 店長だという青年に見送られて、店を出た。遊戯は、城之内の後ろをぽてぽてと歩いた。時間をおいたら、打ち身がひどくなったらしい。身体が熱っぽかった。
 ふたりとも無言だった。
 夜半に近かったのに、まだ人通りは多かった。
 酔っ払いの集団が、遊戯に向かって口笛を吹き、卑猥なセリフを投げつける。
 正直、今の遊戯はどっからみても、いいカモにしかみえない。お子様がレザーで身を固めて、おもいっきり背伸びしてますみたいな格好だ。
 ナンパなんてのは、美人だからひっかけるんじゃねぇよ。犯れそうだと声かけるんだ。城之内は心の中でそう毒づいた。
 やれる女には二種類ある。誰にでも突っ込ませそうな女と、何をしても文句をいわなさそうな女だ。遊戯は後者にみえるのだろう。ふわふわのジャケットなんて羽織ってんじゃねぇよ。女とまちがえられるだろ。夜なんだし。お前チビだし。酔っ払いにはわかんねぇよ。
 城之内は舌打ちをして、遊戯の腕をひっつかむと、ぐいっと自分に引き寄せた。
「じょ、城之内くん?」
「面倒なんだよ。お前みたいなチビがひとりで歩いてると」
 腰に手をまわして、歩き出す。
 遊戯はちいさな声で、ごめんと言った。
「謝るぐらいなら、最初から来んじゃねぇよ」
「…………」
 繁華街を抜けて、歩き続ける。
 住宅街に入ると、しんとした冬の夜の道には、人通りはほとんどなかった。
 遊戯の家の近くの公園にたどり着くと、城之内は何も言わずにベンチに腰を下ろした。この間、使ったのと同じ場所だった。遊戯もとなりに座る。鋳物のベンチはきんきんに冷えている。ふたりは無言のままだった。しばらくして、城之内が口火を切った。
「なんだよ、セックスってよ」
 遊戯には答えられなかった。
「お前、ホモかよ」
「そうだよ」
 城之内は激高した。
「なんでだよ!」
 ありえねぇだろ、そんなの!
「ボクだってなりたくなかったよ!」
「じゃあ、なんで!」
「しょうがないだろ。好きになった相手が男だったんだから」
 城之内は頭をふり、大げさな身振りで否定を示した。
「信じられねぇよ! お前、オレの貸したエロ本喜んでただろ! 杏子のことだって好きだっただろ!」
 遊戯が、真崎 杏子を好きだったことぐらい、城之内だって知っていた。城之内の好みではないが、明るくて元気でまっすぐな子が好きだって、曇り一つ無い表情で言ってたのも覚えている。付き合ってと言われて、適当に付き合ったことしかない城之内には、遊戯のその表情はまぶしかった。ほんの少しだけれど、羨ましかった。そういう風にひとを好きになってみたいと思った。それなのに、今の遊戯はなんだ。今の表情はなんだ。
「ボクだって信じたくなかったよ!」
 なんで、そんなつらそうな顔してる。
「お前、ほんとに、そいつのこと好きなのかよ?」
 城之内は遊戯にたずねた。
 ちっとも嬉しそうでも、楽しそうでもねぇだろ。そのツラ。
「気が付かなければよかった」
 遊戯は、哀しそうに眉根をよせてうつむいた。
「好きになりたくなんてなかった」
「どうして」
 どうして、好きなんだよ。どうして、男なんだよ。だいたいなんで好きな男がいるのに、セックスしに行く必要があるんだ。城之内はそうたずねたかったが、遊戯の大きな瞳をみると何も言えなかった。紫がかった目は、涙で潤んでいる。いまにもこぼれ落ちそうだった。泣き顔つくんなよ。弱いんだ。
 いつだって、泣かせたくなんてないのに。
 笑っていてほしいのに。
「そのひと、男は嫌いだもん」遊戯は鼻をスンと鳴らした。「あたりまえだけど」
「お前の気持ち、知ってるのかよ?」
「ううん」遊戯はちいさく首を振った。「知らないよ。言ってないもの」
「忘れちまえよ、そんな奴のこと」
 城之内は腹立たしげに吐き捨てた。遊戯にこんな顔をさせといて、何様だと思ってるんだ、そいつは。
「ボクだって、忘れたいよ。だから今日、行こうとしたんだ」
 それが、男とセックスできる場所か。どういうところなのか城之内には見当がつかなかった。きっとピンサロとかキャバクラとか個室ビデオとか、そういうところと似たようなもんだろう。
 けど、ありえねぇだろ。遊戯がそんなところに行くなんて。
 なんで、そんなことすんだよ。
 どうして、そこまでしなきゃなんねぇんだよ。
 そいつのために、なんで。
「だからって、好きでもないやつと、セックスすんのかよ! してぇのかよ!」
 城之内は、遊戯の肩を掴んだ。
「したくないよ!」
 遊戯は叫んだ。
 その声の、意外なほどの力強さに、城之内は驚いた。
 遊戯は、口づけをうける乙女か、罪の告白をする咎人のように目を閉じた。
「だけど、他にどうすればいいんだよ」
 遊戯はまぶたを閉じたまま、言った。
「ボクは馬鹿だよ。だけど、馬鹿なりに考えたんだよ。忘れようって。どうにかしようって」
「遊戯」
「間違ってるかもしんない。だけどボクにはもうどうしていいか、わかんなかったんだよ」
「遊戯」
「ボクはどうせ気持ちわるいよ、変態だよ。城之内くんに嫌われたって当然だってわかる。しょうがないのもわかる」
「んなことねぇよ!」
 城之内は衝動的に遊戯を抱きしめた。
 ちいさな身体はすっぽりと城之内の腕の中におさまっていた。
 きつく抱きしめながら、城之内は遊戯に言った。
「嫌うわけねぇだろ」
 そんなことはない。そんなことを、オレが思うわけねぇだろ。お前は大事な親友で。誰よりも大切で。だから、許せないだけだ。それだけじゃねぇか。なんで、わかんねぇんだよ。
 城之内がとぎれとぎれにそう告げた。
 わかってほしかった。
 それなのに、城之内の見ている前で、遊戯は涙をぽろぽろとこぼした。遊戯は涙を拭くことも、止めることもしなかった。眉をひそめたまま、ただ頬を涙で濡らした。
「オレとしろよ」
 濡れた頬にそっと手をあてて、上向かせる。城之内はじっと遊戯の顔を見つめた。
「城之内くん……?」
「セックスすんなら、オレとしろよ」
 城之内はそう言った。