◆3

 しょぼしょぼと眠い目をこすりながら、英語の宿題のノートをカバンから取りだした。
 朝のHR前には写しておかないと。
 遊戯はきょろきょろと教室を見回した。朝の早い杏子は、とっくに登校済みだった。
「杏子、今日の宿題やってある?」
「やってあるけど、たまには自分でやらないとダメよ」
 はい、と渡されたノートをありがたくうけとり、さっそく書き写す。杏子の英語の成績は学年でもトップレベルだった。杏子はそのまま遊戯のとなりの席に座った。滅多に登校しない海馬の席なので、遠慮がない。
 ふああと生あくびをしていると「またゲームやって夜更かししてたんでしょ」と杏子に突っ込まれる。
「昨日は、ゲームしてないよ」
「ほんとに?」
「寝付けなかったんだ」
 きれいに整った字でつづられた文章を見ると、杏子がアメリカに行きたいのはホントなんだなーと実感する。えらいよな。夢を持つ人間は多いが、実現に向かって努力する人間は少ない。そういうところ、やっぱり好きだなと思う。
 そうだよ。ボクが好きだったのは、杏子みたいな素敵な女の子なんだもん。昨日のあれは、なんかの気の迷いだ。そうに違いない。
 そう思っているのに。
「よ!」
 その声を聞いただけで、びくんと身体がすくんでしまう。
「おはよう城之内」
 杏子が挨拶を交わす。
「オレには挨拶なしかよ」
「本田もおはよう」
 あー、オレも宿題忘れてた。みせてみせてと、二人が群がってくる。遊戯とあわせて三バカトリオといわれた仲間だ。このふたりが真面目に宿題をやってくることは少ない。城之内が椅子をひっぱってきて、遊戯の前に座った。
「どうだよ、具合?」
 ひょいっと顔をのぞき込まれただけで、顔がかーっと熱くなった。
 胸がどきどきする。なんなの、これ。
「具合って?」と杏子が首をかしげる。
「遊戯のやつ、昨日熱だしちゃってさ」城之内が説明した。
「大丈夫なの、遊戯?」
「だ、だ、大丈夫だよ。ほんと、大丈夫」
「でも顔赤くねぇか?」と椅子をひきずってきた本田が言う。
「どれ、ちょっと見せてみろ」
 城之内に前髪をかき上げられて、ひたいをくっつけられる。沸騰したみたいに身体に火がついたように熱くなった。昨日の比じゃない。
 目の前の顔とか、夢のこととか、いろんなことが頭の中をぐわーっと回り始めて脳みそがミキサーに放り込まれたみたいになる。心臓がどっどっどっとアイドリングしてる車のエンジンみたいに脈打っている。どうなってんだ、ボクは。
「やっぱり熱いぜ」
「そうだな、顔まっ赤だぜ」と本田が言った。
 杏子もうなずく。「保健室行ったほうがいいわよ、遊戯」
「平気だってば。ほんと、ぜんぜん平気」
 なんとか言いくるめて、宿題を写すのに全身全霊の集中力をかけた。
 城之内が近くにいるだけで気になってしまう。

 あの夢のせいだ。まちがいない。



 授業はさんざんだった。
 英語は無事に宿題を提出できたものの、その次の鶴岡の授業では、指名にしどろもどろで応答し、クラス中の笑いを誘った。
 さらにその次の体育の授業では、バスケをやってる最中、どこからともなく転がってきたボールにこけた。
 おまけに、後頭部からごつんと床にぶつかった。
 痛い。はんぱなく痛い。
「やだー」「だいじょうぶかなー」なんて、ギャラリーの声が聞こえてくる。
「だれだよボール放置してたやつは」
 誰でもいいよ。遊戯はやけっぱちな気分でそう思った。痛いだけじゃなくて、恥ずかしい。人数合わせで入ってるだけだったっていうのに間抜けすぎる。この壊滅的な運動神経をどうにかしてくれ。
「遊戯くん、大丈夫?」
 一緒のメンバーだった獏良がべったりと床にすわって、顔をのぞき込んでくる。平気だよと、声をかけて立ち上がろうとすると「動くんじゃねぇ、バカ」と城之内が隣のコートから飛んできた。
 いや平気、ほんと平気。
 痛いのにはけっこう耐性あるから。わりあいと丈夫だし、ボクは。
 そう言おうとするのに、痛みが強くてそれどころじゃない。叫び出すのを必死で我慢しているせいで、ろくにしゃべれない。なんとかよろよろ立ち上がって、平気と手振りでしめそうとするのに、城之内が怒ったような顔をした。
「ひとの言うこと聞けよ、テメーは!」
 ひょいっと両腕に抱きかかえられた。子供じゃないんだからと抵抗する気力もない。
 城之内は「保健室連れていきます」と先生に言い放つ。迫力におされたのか、体育教師の刈田も「お、おう」と返すだけだった。



 保健室のベッドなんて久しぶりだった。
 こう見えても健康には自信があるのに。

「しばらく様子みておきましょうか。頭はやっぱり怖いしね」
「おねがいします」
「もう戻っていいわよ」
「はい。んじゃ失礼します」
 白い天井をみつめながら、遊戯は保健室のドアが閉まる音を聞いた。城之内が去っていく足音が聞こえる。城之内くん、体育は好きなのに。悪いことをした。
 パイプベッドの固さと、ぱりっと糊のきいたシーツの感触が落ち着かない。他のベッドは空っぽだった。
 すぐに保健の先生がやってきて、体温計で熱を測られた。
「たしかに、少し熱あるわね。具合わるいなら、無理しちゃだめよ」
「はい」
 当てられたさらりとした乾いた手の感覚が心地よかった。おかしいな。なんで城之内くんにされたときは、あんなに緊張してたんだろう。夢のせいかな。きっとそうだ。
「うしろ、すごいこぶになってるわよ。冷やすもの持ってくるから、楽にしてなさい」 
 冷却まくらをあてがってもらって、横臥する。未だに、じんじんと痺れている。
「吐き気とか、めまいとか、なにか異常を感じたらすぐに言うのよ」
「はい」
 ああ、昨日見た夢って正夢だったのかな。
 あれも、ぶつかって終わったし。
 目をつぶっていると、とろとろっと睡魔が押し寄せてきた。



「失礼します」
「おべんと持ってきたよー」
 御伽と獏良の声が聞こえた。すっかり眠ってしまっていた。睡眠不足が効いたらしい。ちょっと口元から涎がたれている。遊戯はあわてて体操着の袖で拭いた。
「先生、お茶もらっていいですか」
「しょうがないわね」
 御伽は先生と歓談していた。保険の先生と仲がいいとは知らなかったな。ぼんやり見ていると、「職員室に行ってくるから留守よろしくね」と頼まれていた。
「武藤君は、まだ戻っちゃだめよ。熱をもう一度測ってからね」
「はーい。まかせてください」
 御伽はにこやかに手をふった。
「ボクらもたべよーよ」獏良はそのあたりにあった丸椅子を、勝手にずるずると引き寄せた。「勝手に机あさってきちゃったけど、いいよね?」
「あ、うん。ぜんぜん大丈夫」
 獏良から、弁当箱を渡される。制服も持ってきたから、あとで着替えるといいよと御伽に言われて、遊戯はうなずいた。
「ものすごく大きなタンコブになってるよねー。こんなの初めて見たよ。さわりたいな」
「そんなに、うずうずした目でみないでよ、獏良くん」
 城之内くんと本田くんは来ないのだろうか。
「ああ、あの二人は呼びだされてるよ。英語の宿題丸写しで」
 察した御伽が説明してくれた。
「げ!」
「遊戯くんは運が良かったよねぇ」
 獏良があとを続ける。それでも自分もあとで同じ目に合うことは明白だ。ホントにもうついてないとため息をついて、遊戯は卵焼きに箸を突き刺した。甘い。
「あー、もう昨日の変な夢のせいだ。みんなそうだ」
「なになに、どんな夢」
「オレも聞きたいな」
「たいした夢じゃないんだけど」
 遊戯は、昨日みた夢を説明した。フンドシを締めたウサ耳本田が走っていくところで、ふたりともいっせいに吹き出した。獏良は夢の中での自分の役割に満足したようだった。
「よかった〜。変な格好で出てこないで」
「おもしろい夢だよね。オレの出演が無かったのは残念だな。城之内君や真崎さんは?」
「で、出てこなかったよ」
 遊戯は嘘をついた。あの城之内のグラビア本の話はできるわけがない。
 獏良はふむふむとうなずいた。
「その夢って、昨日の話のせいでみたんじゃないのかな〜。そういう写真もあったでしょ。フンドシ祭り。ボクは寒いから絶対にそんな祭り参加しないけど、本田くんはたしかに参加してもおかしくないよね」
「本田君が、それ聞いたら怒るよ」
 御伽のつっこみに、獏良はあははと楽しそうに笑って返した。遊戯も笑った。
 こうやって話をすると、なんだか落ち着いたような気になる。怖い夢をみたときと同じだ。笑い話にしてしまえば、すっきりするものだ。
 よかった。これなら城之内くんとあとで会っても平気でいられる。
 そう思っていたのは、獏良が次の口火を切るまでの、ほんの数分だけのことだった。
「そーいや夢といえばさー、前にすごいこと言われたことがあるよ」
「なにを言われたの?」遊戯は獏良にたずねた。
「ボクとセックスする夢をみたから、付き合ってくれって」
 遊戯と御伽は思わず箸を止めた。じっと獏良を見た。
 あまりにあっけらかんと言うので、毒気を抜かれる。いや、それ以前にどう突っ込めばいいんだ。
「そ、それって女の子に言われたの? 誰? うちのクラスの子? ずいぶん大胆だよね」
 遊戯は矢継ぎ早に聞いた。
「いや、男」
 獏良は首を振った。
「おとこ?」
「うん。ボクって美人だからさー。そこらへんの女の子よりきれいじゃん」獏良はにこにこと答えた。たしかに美形であることは否定しないが。「そのひとも悩んだみたいだよ。男相手なんて考えたことなかったって言ってた。それでも、そういう夢をみちゃうぐらいなんだから本気にちがいないって」
「真面目なんだ」と御伽。
「真面目にふったよ」と獏良。
「ふったんだ」と遊戯。
「そりゃね」獏良はうなずいた。「ボク、今は誰とも付き合う気ないもの」
 ある意味、獏良に告白した男はラッキーだったのかもしれない。男同士でキモいとか、信じられないとか、そういう安直で否定的なことばは言わなかっただろう。
 こう見えて、獏良はひとを傷つけることが嫌いだし、苦手だ。
 身近になるとわりあい遠慮なく毒舌をふるうけれど、転校してくるまで色々とあって、他人の無遠慮な言葉や視線に傷つけられてきたから、ネガティブな言葉を使って相手を追いつめるようなことはしない。私設ファンクラブの女の子たちが解散しないのもそのせいだ。
 それはいい。いいんだけれど。
 遊戯は不安になった。
「あのさ。夢で、その、誰かのえっちな姿をみるって、どういう意味だと思う?」
 御伽はゆっくりとお茶を啜ったあと、「好きなんじゃないの」と言った。
「少なくとも獏良くんに告白したひとは、そう思ったんじゃない」
 遊戯は獏良をみた。
「ボクは、リアルな知り合いをオカズにしたことないからわかんないけど、やっぱり、そういうことをしたいって意味じゃないかな」
 獏良はやわらかに笑って、そう返事をした。
「そういうことって?」遊戯がたずねる。
「セックス」
 率直なことばに、遊戯は固まった。

 ねえ、それじゃボクのあの夢の理由ってさ。
 もしかして、もしかして、もしかしなくても。

「そういう夢、みたの?」
 獏良の声が死刑宣告に聞こえる。

 ボクって城之内くんのことが好きだったの!?