「健康診断なんて廃止すればいいんだ、そうは思わないか、城之内くん」
 隣を歩いているアテムが愚痴る。
 そう言われても。
 お前の家は、お抱えの医者なんてのがいるかもしれないが、オレにとっちゃ検診はマジありがたいぞ。うちは歯科検診までやってくれるし。
 しかしさ、お前が妹のことを大切に思ってるのはこの1週間でいやというほど、十分すぎるほど知ったけど、いきなり女子ばっかりの検診車にずかずかと入っていくのはどうかと思うぜ。
 そう言ったら、どうしてオレと相棒が一緒に検診を受けられないんだろうと哀しそうな顔をした。思わず絆されてしまいそうになるぐらい、切なそうな顔だった。
 でもな、そんなのお前が男で、遊戯が女だからだろう。いくら双子でも、すこしは自重してもらいたいもんなんだが。
 オレたちは着替えをてっとりばやく終わらせて、女子更衣室に向かっているところだった。女子更衣室と男子更衣室は、教室のある棟の右と左に振り分けられている。隣同士にしておくと問題でも起きると思うんだろうか。
 なんで女子更衣室に行くかというと、アテムが遊戯を待つためだった。移動のときは、常に一緒に行動しようとしてるのだ。変態扱いされるかもしんないしさ、やっぱやめようぜーと説得しても「いやオレは相棒のために女子更衣室の前の廊下で待つ!」といってはばからない。あきれるばかりのシスコン精神だ。シスコンの鏡だ。シスコン王だ。
「相棒の身体が他の男の目に触れるなんて、絶対に許せないぜ!」
 それだと医者にも、かかれなくなるぞ。
 だいたい、あんまり妹さんのことを言わないでくれないかな。つい想像しちまうじゃないか。体操着を脱いで、あのぺったんこの胸をぐいっとさらけ出しているシーンとかをさ。ひんやりしたレントゲンの機械にぺったり押しつけているとことか。聴診器をやわらかな白い胸にあてられているとことか。
 ああ、もう。
 オレ普通に巨乳が好きだったはずなのに。
 でも女の子は胸じゃないよな。つるぺたもいいよな。
 そういや遊戯は、ブラジャーつけてないよなぁ。
 体育のときもノーブラで過ごすのだろうか。先週は通常授業がほとんどなかったから体育もなかった。ちっちゃい乳首がぽっちり浮き出てたらどうしよう。
 やべぇよ、それ。
 頭と顔と股間がかーっと熱くなった。
 別のこと考えて頭を冷やさないと、人前を歩けなくなってしまう。男の身体は不便だよなぁ。なんで勃起なんてシステムを作ったのだろうか。魚とか卵にぶっかけるだけだけど、あれは快感ないんだろうなぁ。それともあんのかな。わかんねぇな。
 なんてくだらないことを考えてたら頭が冷えてきた。よしよし。
「なんでさっきから百面相をしてるんだ城之内くん」
 聞いてくるなよ、お前のせいだってばアテム。



 女の着替えは時間がかかるだろうと思って、途中で自販機のパックの牛乳(60円)を買ってすこし時間をつぶしてから、女子更衣室の前についた。
 やけに中が騒がしい。
 ばたばた足を踏みならす音や、キャーキャー悲鳴っぽい声まで聞こえる。
 オレとアテムは顔を見合わせた。
「何かあったんだろうか?」
 アテムが心配そうな顔をする。
「ゴキブリでも出たんじゃないのか」
 他に思いつかないじゃんかと、オレが続けようとしたときだった。
「このぉ! 逃げるなッ! 痴漢――ッ!」
 野坂の大声が聞こえた。
 痴漢?
「だめっ、遊戯ッ! 危ないから!」
 真崎の声が続いて聞こえる。
 アテムは冷静な顔で、躊躇せずに女子更衣室のドアを開けた。
「相棒! 相棒はどこだッ!」
 中の喧噪がさらに一層大きくなる。アテムはアメフトのディフェンスラインに突っ込んでいくランニングバックのように、その集団の中に走り込んでいった。耳が痛くなるような高周波がさらに高く大きくなる。女の子の群れの向こう、普段は閉じっぱなしのはずの曇り硝子窓が大きく開け放たれていた。その窓のそばには真崎と野坂がいて、大声で誰かを呼んでいる。
「もどってきなさいよ、遊戯!」
「あぶないよ! 無理だってば、遊戯くん!」
 遊戯!?
 オレはくるりと向きを90度変えると、廊下をダッシュした。突き当たりのドアを開けると、校庭に出る。上履きのまま外に向かって走った。すぐに裏庭の方に向かう。更衣室の窓のある方だ。授業の合間の休み時間とはいえ、この時間に外に出てる人間なんてほとんどいないから、すぐに見つかった。
 コンクリートの塀の近くで、ちっちゃい白い何かが、黒いコートを着た男にセミみたいにしがみついている。
「逃げるな! 痴漢のくせにっ!」
「このっ、離せドチビがあッ!」
 コートの男は、しがみついていた遊戯を勢いよく振り払った。遊戯はふわっと空中を飛んで、チューリップやヒヤシンスの咲いている花壇の中にぽとりと落ちた。
「遊戯ッ!」
 心臓が跳ねた。
 体中の血管がどっどっと脈打ってうるさいぐらいだった。頭の中がカッと燃えていた。
 オレはケモノみたいなうなり声を上げながら、その男に襲いかかった。逃げようとしている背中に跳び蹴りをかまし、地面に倒れたところを殴ろうとしたら、足払いをかけて反撃してきやがった。ずざっと倒れたオレの胸もとを引き寄せて、脅しをかけてくる。
「ざけんなよ、ガキが!」
 歳は20代後半ぐらいの厳つい顔をした男だった。
 ふざけんのはそっちだ。殴る蹴るなんて慣れてるから屁でもねぇぜ。
 オレは相手の顔を睨みつけたまま、そいつの後頭部をひっつかんだ。鼻めがけて勢いよく額をつきだす。めりっといやな感触が伝わってきた。声にならない声を相手があげる。一度で止める気はない。こんなのはためらった方が負けだ。二度、三度と繰り返すと、そいつはよろよろと後ずさって、カラスがわめいてるみたいな悲鳴をあげた。潰れた鼻からはだらだらと血がながれている。
「痛てぇ、痛てぇよ! くそがぁ!!」
 何かを取りだそうとポケットに震える手を突っ込む。ナイフか特殊警棒かなんかだろう。オレは逡巡せずに、相手の右手を思いっきりけり上げた。こういうときのオレは頭がシンと冷えている。体中は熱いのに、頭の中だけ冷蔵庫に突っ込んだみたいに妙に冷静なのだ。きっと、相手が何をしても対処できるようになってんだろう。
 ぐきりといやな音がした。ヒッと音を飲み込むような声を出して、黒コートの男が後ずさる。よく見れば、コートの下は全裸っぽい。ド変態が。顎をけり上げる。
 仰向けで倒れたところをマウントになり殴った。相手の血がオレの拳を汚した。かまわずパンチを入れる。殴った。殴りまくった。
「ひゃ、や、やめて……」
「ざっけんじゃねぇよ!」
「もうやめて!」
 その声にはっとして振り返る。
 白いひらひらした下着姿の遊戯が、オレを見ていた。でっかい目は涙でいっぱいで、いまにもこぼれ落ちそうだ。
「ゆ、遊戯……」
「だめだよ、城之内くん。もう気を失ってるよ」
 きゅっと唇を噛んで、哀しそうにオレをみている。オレは自分の下にいる痴漢を見た。気を失っていた。やべぇ。たしかに殴りすぎたかもしんない。
「ごめん……」
 オレは立ち上がって遊戯の前に出た。
 真っ白のレースはところどころ土で汚れていた。この間すりむいた膝小僧のあとがまだかすかに残っている。ピンク色のチューリップの花弁が頭についていた。オレは、それを取ってあげようと手をのばした。そうすると必然的に遊戯の上からのぞき込むようになる。
 何の気無しにした仕草だったんだけど、レースのスリップ(っていうのか?)白いひらひら下着の隙間から、小さなピンク色の突起が見えた。
 見えてしまった。
 一瞬でカッと顔が熱くなった。
 きっとまっ赤になってる。自信はある。
 汗がだらだら流れてきた。
 ああ、そんなつもりじゃなかったのに。
「こ、こ、こ、これッ!」
 裏返った声をあげながらオレは自分の制服の上着を脱いで、遊戯につきだした。遊戯は「あっ……」と小さな声をだすと、今ようやく自分の姿に気がついたのか、恥ずかしそうに顔を赤く染めた。上着を羽織り、きっちりとボタンを止めると、太ももあたりまで全部隠れてくれたので、ちょっとほっとした。
「ありがとう、城之内くん……」
 もじもじと両手を胸の前で交差させると、ぶかぶかの袖から指先がちょっとだけ出ている。彼氏の服を着ている女の子のグラビアみたいだ。オレはすぐにその妄想をぶんぶんと振り払い、遊戯はさっさと更衣室に戻った方がいいと告げた。
「で、でもさ……」
「すぐに他のやつらも先生も来るだろうしさ。見られたくないだろ、その格好」
 と言ってる間にもうやってきた。
「相棒――ッ! 相棒――ッ!」
 絶叫しながら土煙をたてる勢いで走ってくるのはアテムだった。顔にひっかき傷がついている。女子更衣室を突っ切ろうなんてするからだ。
「まったくもう、もうひとりのボクってば」
 苦笑するように遊戯は呟くと、もう一度オレの方を見上げた。
「顔、怪我してるよ」
 オレは手を頬に当てた。いっぺんすっ転んだから、ちょっと擦り傷ができてる。
「なんでもねぇよ、こんなの」
「ちょっと屈んで」
 遊戯がしゃがむように手招きするので、その通りにしてみる。そっと小さな指が、オレの頬を気づかうように撫でた。それだけでオレはどきどきした。いや、なんつのか、その。思考が止まる。息をするのさえ、意識しないとできなさそうだ。
 ぺろっと濡れた温かい感触がした。
 何、いまの?
 舐めた? もしかして。
「消毒」
 そう言って笑ってみせると、遊戯は校舎に向かって走って行った。