「相棒」
 そっと優しく、繊細に、まるで触れたら壊れてしまうかのように、彼が言う。
「…………」
「相棒?」
 哀しげに、まるで引き裂かれた恋人のような声を出して、彼が呼ぶ。
「…………」
「遊戯」
 甘く、心をとろかすような声で、アテムがボクの名前をよぶ。
「…………」
 それでもボクはアテムの呼びかけを無視しつづけていた。
「いい加減に返事をしろよ! 怒りたいのはこっちなんだぞ!」
 やっぱり切れた。
 意外とボクの兄は短気なのだ。なんでも自分の思い通りにいかないとすぐにヘソを曲げるんだから。だからって付き合う義理はボクにはない。だいたい、それに。
「怒るのはこっちだよ!」
「どうしてだ」
「帰るなり、制服ひっぺがしてベッドに放り込むなんて」
 何が哀しくて、部屋に入るなり、制服をぜんぶ脱がされて、ベッドに放り込まれなければならないのだろう。
 今ボクらがいるのは、アテムの部屋の大きなベッドの上だった。大人が4人ぐらいは平気で横になれるサイズの巨大なベッドに、ボクは押し込まれていた。私服に着替えたアテムは、ボクのとなりに腰を下ろしている。
 アテムのベッドはやけにゴージャスで、四隅に美しい飾り彫りのしてあるポールがついた天蓋付きのベッドだったりする。邪魔されないように幕は下ろしてあって、ちょっと薄暗い。
 アテムは長男で、跡継ぎだから、それにふさわしくなんでも立派なものが与えられている。ベッドだけじゃなくて部屋だってそうだ。ボクの部屋は、こんなに贅沢ではないけど、正直なところその方がよかった。
「制服を着たまま寝ると、皺になるだろ?」
「下着まで脱がせるな! パジャマまで着せるな!」
 しかもパジャマはふわふわした白のレースだ。パジャマというよりネグリジェに近いかもしれない。
「オレも着替えたじゃないか」
 恥ずかしいことがあるのかって言う。そりゃ別に、はずかしくはないけどさ。双子なんだし。お互いの裸なんて生まれたときから見慣れてる。
 アテムの私服姿は、シンプルな黒のタンクトップに黒い皮のパンツだった。黒は似合うと思うけど、あんまり上品とはいいがたい服装だ。マハードたちが嘆いているのを知ってるくせに、そういうラフな格好をアテムは好んでいる。プライベートの時間まで、きっちりした服装なんてしたくないっていう気持ちはわからなくもないけど。
「寝る必要なんてないよ。膝すりむいただけじゃんか」
「怪我は怪我だろ」
 有無を言わせぬ態度で、ボクの身体にのしかかってくる。首のあたりに手をまわして、ぎゅっと抱きしめてくる。じんわりと伝わってくるぬくもりが気持ちよくて目を閉じてしまいそうになる。あーもう、こうやってボクを懐柔しようとしてるだろ。その手は食わないぞ。
「今日はゆっくり休むといい。食事はあとでオレがもってくる。風呂は無しだぞ。オレがあとで身体を拭いてやるから」
 なんで、そんなことになるんだか。
 ああ、もうこの馬鹿アテム。
「怪我のひとつやふたつなんだよ!」
「オレは、相棒に髪の毛一筋の傷さえ許したくないんだ」
 わかってくれるだろって、そんな真摯な目で見つめられても無効だってば。
「いい加減にしろよ! ボクは男なんだぜー!!!」



 ケリを入れてつっぷしたアテムを置き去りにして、ボクは自分の部屋に戻った。ボクとアテムの部屋は階が違っていて、かなり離れている。
 ボクの部屋はシンプルに、ベッドと机とタンスがあるだけのごく普通の部屋だ。正直、うちの使用人と大差ない。アテムの部屋みたいに、ベッドルーム以外にも書斎やら風呂やらいろいろついてたりはしない。
 無理矢理着せられたパジャマを脱いで、長袖のカットソーとゆるめのコットンパンツに履き替えた。ジーンズの方が好きなんだけど、膝に巻いた包帯がひっかかる。正直なところ包帯を巻くほどの怪我じゃないんだけど、取るのも面倒だ。
 すこし冷えるのでパーカーを羽織る。まだ春先だから夕方になると冷気が忍び寄ってくる。いつの間にか、ボクの部屋にきちんと掛けられていた制服をみて溜息をついた。
 この制服が、男子用だったらなぁ。
 そうだ。ボクは男の子なのだ。それなのに女の子の格好をして、女の子として学校に通ってる。友だちも、親友の杏子でさえ、ボクのことを女の子だと思っている。
 しょうがないらしい。
 武藤の家は昔からそれなりに資産家だ。なぜか放浪癖のある人間が多かったらしく、江戸時代あたりからほいほい海外に出たりしてたそうだ。もしかしたらもっと昔、倭寇なんて言われてた時代からかもしれない。よく、じいちゃんがそう言ってる。まあ、そのあたりの話は古すぎて、話半分に聞いておいたほうが無難だと思うけどね。
 でも、それで財産を作ったのは確からしい。
 それだけなら問題はないんだけど、なぜか当主になったひとのほとんどが漁色家で、旅をしては恋に落ち、いろんな女性相手に子供を作ったそうだ。
 そうなると問題が起きる。
 相続問題だ。
 あっちこっちから後を継ぐのは自分だ、いや私だ、と出ててきては、騒動を起こし、ちょくちょく血なまぐさい騒動に発展したというから穏やかじゃない。なにげに後ろ暗いところが多いんだ、ウチは。昔は密貿易とかしてたらしいから。
 それが高じて、武藤家は長男が継ぐ。それ以外は認めないという家訓ができた。
 女の子は問題なかった。どこかよそに縁づけばそれで終わりだからだ。外孫に相続権は与えられなかったし。
 問題は、長男以外の男子だ。昔は男が生まれる度に間引きされてたなんて怖い話もある。長男が後を正式に継ぐまで座敷牢にとじこめてたとか、そういう時代錯誤な話が通ってしまうのがボクらの家だったりするのだ。
 でもさすがにそれは非人道的だろうということで、最近は別の解決策がとられてきた。
 長男以外の男は、すべて女として育てる。
 ――そう。だからボクは男なのに女として生活している。恐ろしいことに戸籍まで女だ。赤ん坊のころからずーっと女として生活してきた。
 それでもボクだってこの年になれば知恵もつく。身体の違いだってわかる。自分が男だってことも理解できる。
 男になりたいんだ。
 男なんだし。
 今の生活のほうがおかしいんだ。
 ボクだって普通に、男らしく暮らしたいだけなのに。
 アテムはボクの気持ちをわかってくれるし、この馬鹿げた家訓も止めた方がいいと思ってる。ボクにはアテムに代わって当主になろうなんて気持ちはこれっぽっちもないし。
 だけど、こればっかりは当主の一存だけでは決められないんだ。青信号で進め、赤信号で止まれと同じように、ただのルールだ。ひとの決めた約束事だ。だけどそれを守って生活してるときは、それを破ることが出来ない。少なくともうちの中ではそうだ。
 親戚のひとたちは、アテムが跡をついだら男に戻れるんだからって言う。アテムが結婚して子供をつくって名実ともに当主となれば、もうボクを女にしておく必要性がなくなるからだ。
 でもさぁ、いい加減ボクだって思春期だよ。
 第二次成長期だよ。
 女子校なんて通えないよ!
 まだ背が低いからごまかせてるけど、体型だってこれから男らしくなるだろうしさ。
 そうしたら、ごまかせるわけないよ!
 ボクはベッドにごろりと横になった。
 細い腕。
 自分の腕をみて、ため息をつく。アテムはあれでけっこう筋肉ついてるんだよな。双子なんだから、ボクだってあれぐらいになってもいいはずなんだけど。体重だって軽いままだし。だから高校生男子のくせに、お姫様だっこなんてされちゃうんだ。
 ――城之内くん、だっけ。
 アテムから話だけはいっぱい聞いてた。あのひとが城之内くんなんだ。あの気むずかしい、人の選り好みの激しいアテムの友だち。アテムが自慢してるだけあって、いい人だよな。ぼけーっと突っ立ってたボクの方がわるいのに、あんなに謝ってくれてさ。手当までしてくれてさ。いきなり傷を舐めるだなんて、ちょっとびっくりしたけど。
 ホントは怖かったんだ。
 ずっと通ってた黒薔薇女学園に行くのをやめて、童実野高校に行くことにしたの。
 女の子だけだったら、まさか男が入ってるなんて考えもしないだろうから、逆にボクみたいなのも目立たないだろうけど、男の子からみたら、もしかしたらわかっちゃうかもしれない。当たり前だけど、ボクには凹凸もないし、やわらかくもない。ちっとも女の子っぽくない。アテムが怒るのも怖かったけど、それ以上にもしボクが男だってばれたらと思うと、怖かった。世間一般から変態って言われるのはしょうがないけど、杏子にずっと嘘ついていたことを知られるのが怖かった。
 杏子にホントのことを言いたいのに、言ったら嫌われる。
 絶対に言えない。
 それでも共学の学校に行きたかったんだ。このままじゃ男の友だちもできない。アテムに友だちを連れてきてくれ、紹介してくれって何度頼んでも無視されるし。
 ボクは、男らしくなりたいんだ。
 大人になって、この家を出たら、男になってひとりで暮らしたいんだ。
 こんなことアテムに言ったら、絶対に止められるだろうけど。
 でも、アテムはボクを守るもんだなんて無意識に考えてる。女の子じゃないのに。男なのに。守られているばっかりじゃいやなのだ。負担になるだけじゃイヤなのだ。ボクはボクになって、男になって、ボクになりたいのだ。
 そんなことをぐるぐると考えていたら足が進まなくて、ぼーっと桜の花びらが落ちるのを見てた。あとちょっとで学校に着くのに、そのちょっとが怖くて。そうしたら城之内くんにぶつかって、転んで、抱えられて連れていってくれた。軽々と。風みたいに。
 いいなぁ。
 城之内くん、か。
 心配そうにしてたときの顔とか、教室で会ったときのほっとした顔とか、別れ際に手をふってくれたときの顔とか、そんなのがぱらぱらと脳裏に浮かんできた。顔がなんだかちょっとだけ熱い。城之内くん、かっこよかったなぁ。いいなぁ。ボクもあんな風に男らしくなりたいよなぁ。
 初めて、だもんな。
 同い年の男の子とまともに話すのって、これが初めてだ。
 いや、あんまり会話してないけど。
 友だちになってくれるかな。
 アテムの友だちだもんね。
 なってくれるよね。
 なってくれると、いいなぁ。
 明日会ったら、おはようって言わなきゃね。それから何を話せばいいのかな。アテムと一緒にカードゲームやってるらしいけど。ボクも実は好きなんだ。でもいきなりゲームの話はヘンかな。どうかな。
 アテムがそーっと様子をうかがいに来るまで、ボクはずっと頭の中で城之内くんとの会話のシミュレーションなんてのをしていた。