春のせいだと思うんだ。

 このところ肌寒かったのが嘘みたいに今日は天気がいい。陽気に誘われた桜がそこら中からパチンコ屋の新装大開店のビラくばりみたいに景気よろしく、花びらを散らしている。ピンク色の花びらがわっさわっさ舞ってるってのは、入学式の日にはぴったりと言えばぴったりなんだけど、堪能してる学生なんてのは、まったく見あたらなかった。
 時間が遅いせいだ。
 そんな桜舞い散る中を、オレは必死に学校への道を走っていた。
 遅刻寸前なのだ。
 生活費工面のために朝刊配達のバイトなんてものをやってるもんで、オレは極端な朝方の生活をしている。自分で言うのもなんだけれど、オレは真面目な勤労苦学生なのだ。んでもって、この生活はハードで大変だが、いいこともある。遅刻をしないのだ。
 オレのように頭の悪い生徒にとっては、こういう日常生活で稼げるところはがっつり稼いでおきたいポイントだ。
 しかし今日は入学式だった。
 昨日までは春休み。
 式は昼から開始。
 二度寝しちまって、気がついたら時間ぎりぎりだ。時間に余裕があると思うと、すぐにこうだ。どうしてオレはこういう性格してんだろ。
 てなわけでオレは新聞配達で鍛えた脳内地図を使い、ショートカットをしまくり、住宅地のほっそい道を猛スピードで駆け抜け、塀を跳び越え、ネコにしっぽを逆立てられ、庭をつっきって犬に吠えられながら、走ってきたわけだ。すでに目の前には、学校の塀が見えてきた。なんという素晴らしいオレの脚力。そして持久力。体力にだけは自信あって本当によかった。遅刻しないで済みそうだ。
 その角を曲がれば、すぐに校門が見えてくる。
 よっしゃラストスパート!

 角を曲がった途端。

 ぽむっと軽い衝撃がして、オレは何かをはね飛ばした。

「うわーーーーーっ!」

 でっかい声がした。子供みたいな声だった。オレはどうやら誰かと正面衝突したらしい。パンでもくわえてたら、古典的な恋愛漫画の冒頭シーンそのものだが、残念ながらジャム付きパンはそのあたりに飛んでいなかった。おまけに、やけに衝撃が少なかった。人ごみでちょっとぶつかられた程度のもんで、オレのほうはすっ転んでもいなかった。
 しかし相手はべつだった。
 目の前に、なにかがぺったり潰れていた。
 セーラー襟にジャンパースカート。
 うちの学校の制服を着た女子だった。
 ほっそいけど子供らしいむっちりした足がにょっきり伸びている。
 それにしても、小さい。サイズからすると初等部の子なんだろうか。
「おい、大丈夫か?」
 怯えさせないように、しゃがんで声をかける。あー、うーとか言いながら、その子は身体をおこした。
「らいじょうぶです」
 回らない舌でそう応える。目立ったところに怪我は無さそうで、オレはほっとした。顔とかに傷できたら困るもんな。女の子だし。
 その子はふるふると頭をふって、オレの方を見上げた。やけにでっかい目が印象的だった。身体も小さいけど、顔も小さくて、頬のあたりをこしこしと撫でている指も小さくて、それなのに眼だけがおっきい。おっこちそうなぐらい。その大きな目の下に、ちんまりした口と鼻がついていた。唇はひらひらそのあたりに散ってる桜みたいな色だった。
 ちょっとオレの知り合いに似てるけど、そいつは男で、目付きとかキツくて、雰囲気がぜんぜん違う。
「ごめんね。ボク、桜見てたからぼーっとしてて」
「いや、オレこそごめん」
 オレは彼女のちいさい手をとって立たせてあげると、パンパンと軽く制服の汚れを払ってやった。新品の制服なのに悪いことしちまった。転がってるカバンもひろって渡す。
「あのさ、オレ入学式で急いでっから、また後でわび入れにいくな。初等部の何組?」
「しょとうぶ?」
 こくんと首をかしげる姿が小動物めいていた。
「うちのガッコの初等部だろ? 何年生?」
「ち、ちがうよ!」
 彼女は首をぶんぶんと横にふった。
「何が、違うんだよ?」
「ボク、高校生! 高校一年生!」
「うっそぉ!」
 同い年かよ。
「あ、入学式!」その子は駆け出そうとしたけれど、すぐに立ち止まり、あいたたたと小さくつぶやいた。オレはあわてて駆け寄った。
「どっか痛めたか? 足ひねった?」
「ううん、ちょっとすりむいただけだから」
 そう言うと、それを示すように、スカートのすそをつまんで膝のところまで持ちあげた。右の膝小僧から血が出ていた。皮のところがべろりと剥けていて、痛々しそうだった。白いふくらはぎに、赤い血が一筋、たらりと垂れている。
「痛むのか?」
「ぜんぜん平気」
 困ったみたいに笑うけど、ほっとけるわけがない。
 どうにかしなきゃ。
 オレは発作的にかがみ込んで、傷口を舐めた。
「ひゃっ!」
「消毒してんだから、動くなって」
「は、はい!」
 汚れてるところを丁寧に舌でなぞった。彼女は痛みを堪えているのか、足に力が入っていた。きゅっと張りつめた筋肉がさざ波みたいに震えていた。
 口の中が血の味でいっぱいになって、ちょっとじゃりじゃりしたけど、袖で口をぬぐってごまかした。ハンカチとかそういう気の利いたものをオレがもっているわけがない。
「んなもんだろ。あとは保健室行って手当してもらえば……」
「あの、でも、入学式……」
 いっけねぇ。忘れてた。
「早く行こうぜ」
 オレは、手をひっぱって走りだそうとした。彼女は「いいよ」と言って止める。
「先に行ってて。遅刻しちゃうよ」
 軽く右足を引きずるようにしていた。強がって笑ってみせてるけど、そうだよな。これだけ血だしてりゃ歩くのちょっと痛いよな。時間があれば歩くのも平気かもしんないけど、でもオレと同じ高校生で、入学式にでなくちゃいけなくて、遅刻はまずいんだから、やることなんて一つしかない。
 よし。
 オレは彼女をひょいっと両腕で抱き上げた。いわゆるお姫様だっこだ。
「へ?」
 予想通り、ものすごく軽かった。引っ越しアルバイトで鍛えた腕力は伊達じゃないぜ。
 彼女はふわりと持ちあげられて、自分が何をされているのかわからないみたいな顔をしていた。でっかい眼で、ぱちぱちと瞬きをしてオレを見つめる。
「しっかり掴まってろよ」
 オレはウィンクなんてしてみせた。
 思いっきり駆け出すと、彼女がぎゅっとオレにしがみついてきた。
 せっけんかなにか、清潔感のある香りがした。女の子って信じられないぐらい、ちっちゃくって、やわらかくて、いい匂いがする。
 オレはなぜか、むちゃくちゃ気分が高揚していた。頭の中からアドレナリンがガンガン分泌されてる。なんだか矢でも鉄砲でも持ってこいな気分だ。今だったら百メートルでも5千メートルでも42.195キロでも世界記録が作れそうな気がする。空も飛べそうな気分ってのはこういうことなんだろうか。給料日の当日よりもハイテンションでワクワクして胸が高鳴りまくりの気分で走りながらオレたちは校門にゴールインした。