アニメドーマ編のときに
バクラとダーツの奥さんが
出会っていたという微妙な捏造話です。




 日差しは目が痛くなるほど白く、影はそれに添うように黒々としていた。みんみんと蝉の音が耳につく。これほどまでに地面は覆われ、建物で埋めつくされているというのに、いったいどこから彼らはやってくるのだろうか。もしかしたら亡霊なのかもしれない。埋められて出ることのできない蝉の魂がないてるのかもしれない。ああ、アスファルトも、コンクリートも、からからに乾いて、砂漠になってしまえばいいのに。



 バクラがマンションの階段を昇っていくと、途中の踊り場でひとりの女に出会った。
 ごく普通の平凡な中年の女だった。どこにでもいそうな女だ。
 このマンションはファミリータイプで、子供を持つ家庭同士ではそれなりに付き合いがあるようだが、獏良のような高校生の男子には縁のないことだった。必然的にバクラも近所づきあいはしていない。バクラは、会釈もせずに通りすぎようとした。

「過去世って、信じる?」

 バクラはふりかえって肩をすくめた。

「宗教なら間に合ってるぜ」
「そう思われるのが当然よね」

 つばの広い白い帽子をかぶった女は、清々しいともいえるような顔で笑った。彼女のうしろに広がる、夏のうすい青い空に似合いの笑顔だった。バクラは興味をそそられて、女に聞いた。
「どうして、そんなことをオレに聞いたワケ?」
「理由なんて、あんまりないわね。思いつきよ。強いていえば、あなたがこの階段をあがってきたからかな。普通はエレベーターを使うでしょう?」
「苦手なんだ」バクラはそう答えた。「狭いところがね」

 馴染みがないのだ。この身体を手に入れるまでは、こんな石造りの街に住んだことがなかったから。

「私もよ」
 女の響きには、バクラと同じ香りがした。
「それに階段は、体力をつけるのにちょうどいい」
「健康的なのね」
「まぁね」

 宿主様――この肉体の本来の持ち主は、クソ暑い夏の太陽に照らされた中を歩き回るよりは、冷房のきいた家の中で閉じこもって遊んでいるほうが好きだった。
 バクラも、この土地の湿気の多いまとわりつくような暑さが好きなわけではない。けれど、少しぐらいは鍛えておいて欲しいのだ。いずれ来る戦いのため――というよりは、この宿主の健康を重んじてのことだった。使わないと錆びるのは肉体も精神もおなじだ。

 バクラはもう一度女をながめた。取り立てて美しくもないが、醜いわけでもない。平凡を絵に描いたような顔をしている。着ているのは白いスーツだった。どこかにこれから出かけるような服装だ。身につけているものも驚くほど高価ではないが、それなりに品がいい。髪もきちんと整っている。胸もとにはシンプルな、大粒の白い真珠のネックレスが下がっていた。耳にもおなじデザインのイヤリングが揺れている。

「あんたは、どんな過去を夢見たんだい?」
 バクラは聞いた。
「一万年前のアトランティス」
 女は、まるで自宅の住所を告げるようにいった。その響きには、興奮も羨望も狂気も何もなかった。
「アトランティスって知ってるかしら?」
 バクラは宿主の記憶をさぐった。「海に沈んだ国だったか?」
「ええ」女はうなずいた。「わたしはその海に沈んだ国の后だったの。とても、ありがちな話ね」女は笑った。誰かに見せることに慣れた、チャーミングな笑い方だった。「でも本当のことなのよ。少なくとも、わたしにはそれがわかるの」

 なまぬるい風が吹いていた。
 ジリジリと太陽の光がバクラを炙っていた。

「それを知ったのは、つい先日のことよ。わたしは、ご覧の通りごく普通の女で、あなたからみれば中年のおばさんと言ったところね。ごく普通の家に生まれて、大学に進学し、就職先で夫と出会い、結婚して、子供をふたりつくった。特筆するようなことは人生に何もなかったわ。ピアノのコンクールで入賞をしたこともない。生徒会に入ったこともない。美人コンテストに出たこともない。平凡な人生よ。そしてそれに別に飽きているわけでもないわ」
「わかるよ」バクラは言った。「あんたは、それを結構たのしんでいる」
「そうね」女は答えた。「悪くないと思っているわ。これまでわたしは、誰かを特別に羨んだり、蔑んだりはしなかった。別に喜怒哀楽がないわけではないし、妬んだり、憎んだりもするけれど、わたしはわたしで悪くないと思っていたのよ。でも、満足というのとはちがうわね。不満はいろいろあるから。――楽しんでいる。確かに、それが一番ぴったりね」
「不足もあるけれど、それも楽しいと?」
「そうよ」女は肯いた。「少なくとも不倫をしてスリルを楽しんだりする気はないわね。夫の相手は楽しんでいたみたいだけれど」
 なるほど、この女はそのためにこのマンションに来たのかとバクラは思った。
 そのわりに、女は嫉妬に狂ってもおらず、かといってどこかに感情を置き忘れてきたのでもなく、ただ平然としていた。彼女にとって、その不倫問題は夕食のおかずを買い忘れた程度のものでしかないように見えた。
「チープだな。快感だけなら、自慰をすればいいんじゃないって、オレの知り合いが不思議がってるぜ」
 バクラの宿主の記憶だった。彼には性欲はあったが、他人と交わることは望んでいなかった。欲望は心地良いものだが、現状の安寧を破棄してまで、行いたいことのように思えないのだ。だって面倒じゃない、女の子って。避妊とか、デートとか。気持ちいいのなら右手で十分。どうせボクの見かけに釣られてくる子たちだよ、プライベートでまで愛想を振りまく気はないよ。

「若い子って潔癖なのかしら」
「オレじゃねぇよ」
 女は小首をかしげた。
「わたしにもわからないわ。ただセックスというのは、誰にでもできるわりに、特別な感じがするからじゃない?」
「とくべつなかんじ?」
「ふたりだけの秘密みたいなものよ」と女は言った。「だれだって秘密は大好き」
「なるほど」とバクラは言った。「でも、あんたはしない」
「わたしはしない」彼女は答えた。
「旦那はしたけど」
「男の甲斐性だって言ってたわ」女は微笑んだ。「それに悩んだし、苦しむけれど、乗り越えられないわけではない。その程度の人生よ。そして、わたしはそれを楽しんでいた。それなのに、ふいに一万年も前に海に沈んだ国の后だなんて記憶が蘇ってきたら、あなたはどうする? 馬鹿馬鹿しいと思っているのに、ありえないと思うのに、それが本当のことだと、事実だと、実際に昔にあったことだと理解できてしまったら」

 バクラはしばらく考えた。自分は三千年も前に死んだ男の亡霊であり、葬られた神である。少なくとも自分には、その記憶が完璧ではないが、確かにあり、三千年も前も、今も目的を完遂するために行動している。その行為をひとことで表すと次のようになる。
「好きなようにするさ」
「なるほど」と女は言った。「それが一番よね」
「あんたがアトランティスの仲間だのなんだのを集めたければ、そうすればいいし、家に帰って夕飯の支度をしたければ、そうするといい」
 女は笑った。
「そうね。今のわたしには、オレイカルコスの力の使い方もわかるし、ちょっとした騒ぎぐらいは起こせるわ。それはそれで、楽しそうよね」
 オレイカルコス――オリハルコンが、アトランティスに存在した幻の金属であることは宿主の知識から得ることができた。しかし女の言う「力」が何かは見当もつかなかった。
 そりゃそうだ。ピラミッドパワーを謳うオカルトグッズは今でも通用しているが、千年アイテムなんてものは誰も知らない。それに鋳溶かされて死んだ人間のことも知らない。自分の中にあるもの――これが執念なのか妄念なのか、バクラにはわからない。ただ自分がその目的のためにセットされていることだけは確かだった。「オレ」という存在は、そのために産まれて死ぬだろう。だから自分はそのために動くのだ。
 しかし、この女はそうではない。
「でも、あんたはしない」
「ええ。スポーツカーを持っていても、レッドゾーンで暴走しないように、ナイフは果物を剥くのに使うように、ちょっとぐらい不思議な力が使えても、不必要には使わない」
「それがいいね」バクラはうなずいた。「それが適切ってことなんじゃないの」
 女は微笑んだ。そして続けて、こういった。
「どうして、そういう風にできなかったのかしら」
「一万年前のアトランティスで?」
「そうよ」彼女は一万年も昔に思いを馳せていた。「わたしたちは、オレイカルコスの力を多用しすぎたの。人の器をすてて、バケモノのような姿になって、そして滅んだわ」
「あんたが?」
「わたしと、ほとんどのひとたちが」女は答えた。「たくさんのひとたちが。夫と、義父と、娘以外のすべてのひとたちが、そうやって自分でさえ理解できない衝動にかられて、人ではなくなり、お互いに殺し合い、憎しみあって、死んでいったの」
「そりゃ、ぞっとしない話だな」

 しかし悪くはないなとバクラは思った。いっそのこと、千年アイテムの力を使った人間どもが、そんな風にバケモノと化していれば、そうして破滅してさえれば。そうすれば、バクラの元となった男――盗賊王と自分を呼んだ間抜けな男は、こんなに長い間ときを彷徨うこともなかっただろう。自分もここで、この女と話すこともなかっただろう。
 だが、世の中は残念ながら勧善懲悪の法則で仕切られているわけではない。起きたことがすべてだ。因果応報ってわけにはいかないんだよな。

「力があれば頼ってしまうのは人として当然のことだけれど、どうして、それに頼り切りになってしまったのかしら。満足を覚えなかったのかしら。どうして、わたしは夫に殺されてしまったのかしら」
「憎んでるのかい?」
「いいえ」女は首をふった。「憐れんでいるのよ。夫はわたしのことが好きだったわ。今も昔も、わたしは欠点のある人間だったから、すべてを愛してくれていたとは思わないけれど、おおむね好感をもっていた。わたしも彼が好きだった。想像してみてよ。わたしを憎んでいたのならいいのよ。殺したことを正当化できるでしょう? わたしに罰を与えるために殺したのならいいの。良心は苛まないわ。でも、目の前でバケモノになっていく自分の妻を助けることもできずに、ただ殺して、そのあと一万年も生きつづけたのよ。頭のいいひとで、強いひとだった。誰からも尊敬されるようなひとだった。そんな男が、自分も妻ひとりすくえず、民もすくえず、壊れていくのを見ていくだけだったのよ」
「ひどい話だ」

 規模の大小は違うかもしれないが、自分の村に起きたことも同じだったのかもしれないな。そうバクラは思った。
 たくさんの時代で、たくさんの世界で、そういうことが起きる。
 悪意もなしに。
 無邪気な善意で。

 でも正しさを信じた男に殺されるよりは、無力さを嘆く男に殺されるほうが幸せじゃないだろうか。少なくとも、この女は夫を憐れむことができる。バクラと名付けられた存在は、あのファラオを憐れむことはできない。憎んでいるのともちがう。盗賊王という男の熱い怒りは自分の中にはない。では、なんだ。邪神を復活させようと願うのはなぜだ。

 傀儡 (くぐつ)だからか。
 あの盗賊王と呼ばれた男の願いなのか。
 大邪神と呼ばれる闇の王の計画か。
 わからない。
 正しさなんてわからないし、自分には必要はない。
 ただ、そうしようと思うだけだ。自分の上には、それだけだ。

「話を聞いてくれて嬉しかった。そろそろ行くことにするわ」
 女はそのあと、からりと晴れた青空を見上げて言った。
「10分もしないうちに、ひどい嵐になるから、洗濯物を取り込んでおいたほうがいいわよ」
「そうするよ」
「大きな地震も来るから、壊れ物には気をつけて」
「ああ」
「できれば、三千年前のファラオによろしくと伝えてほしいわ」
「覚えていたらそう言うよ」
「ありがとう」
 女は白い日傘を取りだすと、それを差した。それから階段をゆっくりと下りていった。
 バクラはしばらくそれを見送ると、自分たちの部屋に戻り、てばやく洗濯物を取り込んだ。それから宿主の一番大切にしている人形をベッドにほうりなげた。棚の上にあるよりはマシだろう。

 その直後に、世界的な記録になるような地震と大嵐が起きた。