◆4
うららかな春の日だった。
暖かくて柔らかい日差しが、明るくきらめいている。
だが、遊戯は外で遊ぶのは苦手だった。本当は室内にいたかったのだが、先生に言われて仕方なくお庭にでた。
遊んでみたいなぁと思うような人気の遊具には、とっくに他の子供たちが群がっている。それを横目で見ながら、遊戯は園庭の一番すみっこの木の陰に腰をおろした。
いいんだ。
だってボクには、これがあるんだもんね。
遊戯は、昨日じいちゃんからもらったレアカードを取り出した。
えへへ。これを使って、デッキ組みなおすんだ〜。楽しみ!
そうやって、遊戯が自分のカードを並べて見直していると、
「おい、お前」
と、突然大きな声が聞こえた。
顔を上げると、目の前に男の子が立っていた。「あ、こんにちは」と遊戯は挨拶した。「ボク、リス組の、むとう ゆうぎ。えっと、キミは……ぱんだ?」
遊戯は、その子の胸のパンダバッジを見て小首をかしげた。童実野幼稚園は、名札バッジの形で何組かわかるのだ。だが、
「おのれ貴様ぁ……! オレは、パンダではない! 海馬 瀬人だ!」
男の子は、憤慨したように叫んだ。いちいち動作が大きい。
遊戯がきょとんとしていると、「見せてみろ」と、いきなり遊戯のカードに手を伸ばしてきた。
「わっ」と驚いてカードを引っ込めると、海馬は「貴様……!」と遊戯を睨みつけてくる。その勢いに、思わず後ずさった。わけがわからない。日に透けた青い目がギラギラ光って、すごく怖かった。
「デュエルだ!」
突然、海馬がそう宣言した。
颯爽とカードデッキを取り出す姿に、遊戯は目を丸くした。
*
「…………あ」
ハッと気がつくと、教室だった。
先生の声が、まるで子守歌のように聞こえてくる。古典の授業中だった。遊戯はこしこしと手で目をこすった。いつの間にか、居眠りしていたらしい。退屈と寝不足のコンボは最強だ。
なんか、ずいぶん昔の夢を見ちゃったなぁ……。
遊戯はまだぼんやりしながら考えた。
そういえば、あのとき海馬くんとデュエルしたんだっけ……? 勝ったんだっけ? 負けたんだっけ? デュエルで負けた覚えはないから、ボクが勝ったのかなぁ。思い出せないや……。
だが今は、そんなことどうでもいい。
遊戯は、指で自分の唇をなぞった。
……キス、してしまった。海馬くんと。
それも、すごくエッチなやつを。
思い出すだけで、頭が沸騰しそうになる。
その感触や匂い、海馬の体温までが、ありありとリアルに思い出された。当然だ。つい昨晩のことなのだ。忘れるわけがない。
キスのあとも、二人はぴったり寄り添ったままだった。
海馬の両腕にすっぽり包まれて、こんなんじゃ眠れないよぉ〜と焦ったが、いつのまにかとろとろ眠ってしまったらしい。
気が付くと、朝だった。ぜんぜん寝た気がしなかった。
海馬は遊戯より先に起きていたが、普段と変わった様子はまったくなかった。
朝っぱらからハイテンションに、昨日のゲームの話の続きをして、あまつさえ、朝食に牛フィレステーキサンドをもりもり食べていた。元気いっぱいだ。なんだか拍子抜けした。
そりゃあさ、起きたらまだ海馬くんの腕の中で、「昨夜のことなんだが……」なんてもじもじ頬を染める海馬くんとか、あるわけないんだけど。そんなのちょっと気持ち悪いし。
でも、まるっきり普段と変わりないっていうのも、どうなのかなぁ。
なんか反応があってもよさそうなものじゃない?
それとも、まさかあれは夢だったとか。
遊戯は「う〜ん」とちいさく唸った。……いやいやいや、そんな馬鹿な。あんなリアルな夢なんてあるわけがない!
寝不足だったので、その日は海馬の家には寄らず、遊戯は自宅に戻った。
だが、鞄を開いたところで、やっと気がついた。
また、あの手紙が入ってる……!
遊戯はすこしためらいながら、その白い封筒を手にとった。
昨夜の海馬とのキスで、手紙のことはすっかり忘れていたが、よく考えると、そもそも海馬とキスしたいと思っていたのは、この手紙の送り主だった。
今更だけど、これ開けちゃっていいのかな。やっぱり、海馬くんに渡したほうがいいんだろうか。でももう、何通も勝手に読んじゃってるし……。
そんな言い訳めいたことを考えながら、遊戯は手紙を開けた。
『あなたともっとキスがしたい
あなたとなら、それ以上も』
その内容に、遊戯の手からポトリと手紙が滑り落ちた。
*
その日以来、何日経っても、次の手紙が来ない。
しかも、心なしか日に日に海馬の機嫌が悪くなっていくようで、なぜか遊戯は不安になった。
結局、あの夜のキスのことは、一度も話していない。海馬の家に遊びに行って一緒に寝ても、とくにそんな雰囲気になることもない。
二人とも、もともとあまりベタベタするタイプじゃないのだ。
じゃあ、なんだったっていうんだろう。あのキスは。
いくら考えても、答えはでなかった。
やっぱり、一夜のアヤマチだったんだろうか。
そんな風に思える。
後悔してるのかな。なかったことにしたいのかな。もう忘れたいのかな。海馬くんは。う〜ん。そうかもしんない。
でも、友達同士でキスしちゃうとか……ヘンだとは思うけど、まったく聞かない話じゃないよね。1000人に1人くらいは経験ありそうだ。だって、高校生だし。お年頃だし。好奇心とか、興味とかあるし。他に相手がいないし。
他に相手がいないし。
………………。
………………。
……いや、違う。いないのは、自分だけだ。
海馬くんには、ちゃんといるじゃないか。
あの、手紙の主が。
『もっと』って……やっぱり、そういうことなのかなぁ。
遊戯は、悶々とそう考えた。
『もっとキスがしたい』って。なんかそれって、既にキスしたことがあるみたいな言い方だよね……。
遊戯にだってわかっていた。一人でいくら考えたって、埒があかない。
そんなに気になるのなら、直接、海馬に尋ねればいい。
海馬くんは、誰かとキスしたことあるの。
もしそうなら、その子のことをどう思ってるの。
なんであのとき、ボクたちキスしたの。
…………くそー! 聞けっこないぜ。そんなの!
だから、昼休み、遊戯は一人で教室を出た。
行く先は、玄関だった。玄関の、海馬の下駄箱だ。
ほんと何やってるんだろう、ボク。すごく馬鹿なことしてる。もう何日も。海馬くんの机とか、下駄箱の中とか、こっそりチェックしたりして。これじゃストーカーだ。不審者だ。どうかしてる。
変だよね。ほんのちょっと前までは、こんなじゃなかった。それなのに、今じゃ海馬くんが隠れて誰かと付き合ってるんじゃないかって疑ってる。
ボクたちの絆は、そんなものじゃないはずなのに。
遊戯は、背伸びして海馬の下駄箱を開けた。
手を突っ込んで、中を探ってみる。何もない。手紙は見つからなかった。遊戯はほっとしたような、がっかりしたような複雑な気持ちになった。
「何をしている、遊戯」
そのときだった。
背後から低い声がした。遊戯の心臓は、凍り付いた。
「か、海馬くん」
「……ふぅん」
恐る恐る振り返ると、海馬は嫌な感じの笑顔で遊戯を見下ろしていた。ものすごく怒っているんだと、瞬時にわかった。
「あ、あの、海馬くん」
「なんだ」
「ご、ごめん! その……勝手に、下駄箱あけたりして」
「なぜ貴様は、こそこそとそんな真似をする?」
「……それは」
手紙をさがして。
キミにきた手紙を、こっそり見ようと思って。
キミがボクに、手紙を隠してるんじゃないかと思って。
―――などとは、到底言えない。
「……ごめん」
目をそらして小さく謝ると、
「ふぅん」
海馬は、つまらなさそうに鼻をならした。次いで、
「何か捜し物でもあるようだな……?」
と、言った。冷静な声だった。
「え」
「捜し物は、これか」
遊戯は目を見張った。
制服のポケットに手を突っ込んで、海馬が乱暴に取り出したのは、紛れもなくあの白い封筒だった。
意味がわからない。
いや、わかる。今、わかった。
海馬は、知っていたのだ。
遊戯が手紙を探していたことを。
勝手に手紙を見ようとしていたことを。
そのまま海馬はズカズカと大股で遊戯に近づいてきて、その胸ぐらを掴んだ。オモチャの人形のようにブラリと遊戯の体が宙に浮く。
「かっ……、かいば、くん……!」
「くれてやるわ!」
とつぜん激高したように、海馬が叫んだ。
遊戯のズボンのベルトの間に、力任せに封筒がねじ込まれる。
「……っ…!」
「貴様は」
遊戯のすぐ目の前で、海馬の目がギラギラ光っていた。
頬が怒りでうっすらと紅潮している。呼吸が荒い。
「貴様は、誰とでもあんなことをするのか……!」
「!?」
「誰でもいいのか、貴様は……!」
海馬の声は、興奮で掠れていた。
遊戯はハッとした。
「……ッ」
襟元を掴んでいる海馬の手が、ブルブル震えている。
殴られると思って、遊戯は歯を食いしばったが、そうはならなかった。
軽い浮遊感の後、気がつくと、遊戯は背後の下駄箱に叩きつけられていた。その衝撃で、下駄箱がひっくり返って、入っていた靴がバラバラと降り注いでくる。
あまりの痛さに、遊戯はその場に這いつくばった。
すぐに、遠くから「そこ、何してる!」と、誰かの声が聞こえてきた。
「大丈夫?」声が近づいてくる。「立てる?」
手をさしのべられた遊戯は、なんとか顔を上げた。
海馬の姿は、既になかった。
痛かった。
どこもかしこも痛くて、泣きだしてしまいそうだった。
それから、先生に抱きあげられて、遊戯は保健室に運ばれていった。
*
海馬は、そのまま家に帰ってしまったらしい。
湿布を貼ってもらっている最中に、先生からそう聞いた。
「ケンカか?」と聞かれたが、「ボクが悪いんです」と答えるしかなかった。
やがて授業が始まり、保健室のベッドの中で一人きりになった遊戯は、こっそりとさっきの手紙を取り出した。
『好きだと言って欲しい
あなたに私を知ってもらいたい』
ベルトの間で押しつぶされた白い便せんには、そう書いてあった。
紙がよれて、綺麗な文字が歪んで見えた。
「海馬くん……」
遊戯は、口の中だけでちいさく呟いた。
海馬くん。
ごめん。
怒ってるよね。
ボクは、キミを傷つけた。
さっきの海馬の顔を思い出して、遊戯の胸がキュッと痛んだ。
遊戯は知っていた。
海馬の目は、暗くて深い水底のような青だ。その目があんなふうにギラギラ光って見えるのは、涙で潤んだときなのだ。
『ゲームをしているときの、あなたが好きです』とか。
『初めて会ったときから、惹かれていました』とか。
どうしてわからなかったんだろう。
『あなたとキスがしたい』とか。
ボクは、バカだ。
海馬くんは、好奇心や冗談なんかでキスできる人間じゃない。
そんなの、幼なじみのボクが、一番よく知っていたはずじゃないか。
それなのに。
『あなたに私を知ってもらいたい』なんて。
遊戯は、クシャクシャの便せんをそっと抱きしめた。
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