◆3
翌朝、予想通り、海馬の機嫌は最悪だった。
家の前で待っていた遊戯の顔を一目見るなり、
「貴様……このオレに何か言わなければいけないことがあるんじゃないか?」
と地獄の亡者のような低い声で唸った。
「ご、ごめん……!」
遊戯は、ガバッと頭を下げて謝った。
海馬はあまり細かいことを根に持つタイプではない。こういうときは、きちんと謝って終わりにしておいたほうがいいのだ。
「本当にごめん! ごめんなさい! ちょっと昨日は、その、体調が悪くて……」
「……それだけか?」
「電話もしなくて、ごめん! すごく反省してます。この埋め合わせは、絶対するから!」
「貴様がオレに言いたいことは、それだけか……?」
「え?」
その言い方に微妙な含みを感じて、遊戯は顔を上げた。腕を組んでイライラとこっちを睨みつけている海馬と目が合う。
「……あ、えーと、その、……心配かけて、ごめん」
思わずそう言うと、
「誰が貴様の心配などするかぁー!」
海馬はすごい勢いで遊戯を怒鳴りつけたかと思うと、クルリと背を向けてサッサと歩き出した。遊戯は、慌ててその後を追いかけた。
どうせ行く先は、二人とも学校なのだ。
授業が始まる前に、海馬くんの機嫌が直るといいんだけど。
そう思いながら、遊戯はもう一度謝罪の言葉を口にした。
*
キス。
キス、かぁ……。
その日の授業中、遊戯はぼんやりと昨日の手紙のことを考えていた。
あの手紙が、自分ではなく海馬宛てだったというのは、たしかにショックだった。
だが、それ以上に「あなたとキスがしたい」という言葉は、遊戯にとって衝撃的だった。
だって、ボクの身近に。
たぶん、この学校に。
もしかしたら、このクラスの中に。
海馬くんと「キスしたい」って思ってる人がいるんだ。
そう思うと、なんだかソワソワしてどうにも落ち着かない。
今まで、海馬に告白してきた子は何人もいたが、彼女たちがそんなことを考えているだなんて、夢にも思わなかった。
なんでだろう?
よく考えてみれば、当たり前のことなのに。
海馬くんと付き合いたいってことは、つまり、そういうことなのだ。
遊戯は、海馬の端正な顔を思い浮かべた。
その薄くてあまり色のない唇に、自分の唇を重ねたいとか。口の中で舌を絡め合いたいとか。あの低い声で、情熱的に「愛してる」って囁いてもらいたいとか。
セックスしたい……とか。
そう考えて、遊戯は一人で赤くなった。
すぐ後ろの席に海馬くんが座ってるっていうのに。1メートルも離れてないのに。それなのに、いったい何を考えてるんだ、ボクは。
でも実際問題、もし女の子と付き合ったら、海馬だってそういうことをするはずなのだ。
遊戯は、昨日下駄箱の前で、海馬があのラブレターを「好印象だ」と評していたのを思いだした。
前のが20点だとしたら、あれはいったい何点くらいなんだろう?
もしも100点満点だったら、海馬は手紙の主に攻略されるとでもいうんだろうか? そんな馬鹿な。どんな人なのかもわからない。ただのラブレターなのに。あり得ない。
……でも、あれを書いた人は、確実に海馬くんと「キスしたい」って思ってるんだ。
遊戯は小さく息を吐いた。
昨夜から、ずっとそうなのだ。結局のところ、そこに考えが戻ってしまう。頭の中がグルグルして、うまくまとまらない。息苦しい。
そんな気分だったから、夕べはとても海馬に電話する気にはなれなかった。簡単な謝罪メールはいれておいたが、今日、海馬が怒っているのも無理はなかった。
だって、海馬くんはいつでも自分が一番じゃないと気が済まないんだから。
体は大きくても、中身はびっくりするほど子供なのだ。
恋愛とか、キスとか、セックスとか、そういうのには、まだぜんぜん興味がない。
興味がない…………はずなのだ。
たぶん。
気がつくと、遊戯はじっとりと手のひらに汗をかいていた。
*
その日の放課後、いつものように遊戯は海馬の家にあがりこんだ。
そのころには、海馬の機嫌もすっかり直っていて、二人でKCの新作ゲームを試すのに熱中した。いつしか、昼間の変な妄想も頭から消え去ってしまい、遊戯はほっとした。
「教えておいてやろう。この『ソリッドビジョン』は、このオレが開発したものなのだ」
まだ試作品の段階だが、お前には見せてやっても構わんぞ……と海馬は誇らしげにそう語った。
「すごい! すごいよ海馬くん」
「ふぅん……当然だ!」
遊戯の賞賛に、海馬はワハハハ嬉しそうに笑った。
海馬くんは、本物の天才だ。
遊戯がそう思ったのは、これが2度目だった。
最初は、もう10年以上前にさかのぼる。
幼稚園のお遊びの時間に、海馬が砂の城を作ったときだった。
その城のあまりに立派で精緻なできばえに、幼い遊戯は驚いて声もでなかった。素直に感動した。今思い返してみても、あれはとても園児が作れるような代物ではなく、芸術家の作品だと思う。
興奮した遊戯が「海馬くんは、大きくなったらお城をつくる人になるの?」と聞くと、海馬は難しい顔で「オレは将来、社長になると決まっている」と答えた。
それから、ジッと遊戯を見つめて「だが、本当はデュエリストになりたい」と小声で続けた。遊戯、お前だから教えてやる、と。
そのときの海馬の、暗く青い瞳が、今でも忘れられない。
あれから13年経って、遊戯も海馬もすっかり大きくなったが、根っこのところは昔と何も変わっていないと遊戯は思っている。
今も昔も、海馬くんはやっぱりすごい天才で、でも、ボクにだけはソリッドビジョンを見せてくれたり、デュエリストになりたいと教えてくれたりするんだ。
そして自分は、そんな海馬が大好きなのだ。
そんなことをしているうちに、あっという間に日が暮れてしまった。
泊まっていけばいいだろう、と海馬が言うので、遊戯はその言葉に甘えることにした。家に電話すると「あんまり迷惑かけるんじゃないわよ」とだけ言われた。こんなふうに遊戯が海馬の家に泊まるのは、よくあることなのだ。
夕飯をごちそうになった後、風呂を借りて、遊戯は自分のパジャマに着替えた。いわゆる、置きパジャマだ。その他、服とか、靴下とか、下着とか、歯ブラシとか、もろもろ常備してあるから、いつ泊まっても安心だった。
それから、二人は海馬のベッドにもぐりこんだ。
海馬のベッドは、とにかく広い。海馬が5人寝てもまだ平気だってくらい、広い。
だから、明かりを落とした薄暗い部屋で、二人同じ布団にくるまりながら、疲れて眠るまでしゃべりあかすのが、ちいさいころからの常だった。
が、今日は違った。
いざベッドに寝転がって同じ目線で海馬と顔を並べると、突然遊戯の頭に、昼間の妄想が蘇ってきたのだ。
な、なに考えてるんだ、ボクは!
遊戯は焦って、目をそらした。
海馬は何も気づかずに、意気揚々とソリッド・ビジョンの話をしている。
その間にも、今日の授業中考えたキスシーンが、あっというまに遊戯の脳内を占領していった。
妄想上の海馬は、知らない誰かと熱烈なキスを交わしている。
セックスの合間にするようなエロいキスだ。AVみたいに下品に舌を突き出してるやつだ。遊戯の知りうる精一杯、限界ギリギリのやつだ。
時折映画のワンシーンのような甘いセリフを囁きながら、頬を紅潮させて、汗を滲ませて、端正な顔を歪めて、ひたすらキスを続けているのだ。
ば、ばか! ボクったら、なんてことを……。
すぐそこに! すぐ目の前に海馬くん本人がいるっていうのに。いくら海馬くんがボクの心を読めないからって、いくらなんでもこんなのダメすぎるぜー!
遊戯は、思い切って半分伏せていた目をおそるおそる開いてみた。薄暗がりの中、すぐ隣で熱弁をふるっている海馬を見つめる。
長い前髪に半分隠れた、切れ長の目を。それから、なめらかな頬を。すんなりと綺麗な鼻梁を。
そして最後に、その薄く淡い色の唇を見た。
海馬が口を開くたびに、整った真っ白い歯と、ピンク色の舌がチラチラ見え隠れする。
カーッと頭の中が熱くなったような気がした。
……この口の中で、あの舌を自分のと絡ませたいって思ってるひとがいるんだ。
そう思うと、もうそこから目が離せなかった。
「聞いているのか、遊戯!」
が、その瞬間、突然海馬ががなった。
ベッドを通して、海馬の声がビリビリ振動する。驚いた遊戯は、びくっと体をすくませた。
「……あ、ああ、うん。も、もちろん聞いてるよ」
「ならば、オレが今話していたことを言ってみろ」
幼稚なセリフだ。
遊戯の態度がおざなりだと感じたときの、海馬の決まり文句だ。
遊戯はじっと海馬を見た。海馬も遊戯を見ていた。
子供のころからずっと見続けてきた、見飽きた顔だ。見慣れた表情だ。
だが、やっぱり遊戯は、その唇から目が離せなかった。
「……あのさ、海馬くん」
絞り出した声は、ちいさく震えていた。
「なんだ?」
「そ、その……、か、海馬くんはさ」
「なんだ? さっさと言え!」
「だ、だから! 海馬くんはさっ……その、キ、キスとか……きょ、興味ある?」
「………………」
ああ……なんてこと言っちゃったんだろう! ボク。
その沈黙は、ものすごく長かった。長く感じられた。遊戯にとっては。
な、なんだよ。はやく笑ってよ。女などに気をとられるとは!ワハハハハー!って。じゃなかったら、怒ってよ。くだらんことを言うな貴様ぁ!って。
なんでもいいから、はやく反応してよ……!
耐えきれずに遊戯は目をそらして、枕に半分顔を沈めた。
くそー。こんなことなら、やっぱり、何も言わなきゃよかった。黙ってればよかった。適当にごまかしとけばよかった。なんでそうしなかったんだろう。バカバカ! ボクのバカ。
遊戯は、シーツをギュッと握りしめた。
でも、どうしても確かめたかったのだ。
確かめて、安心したかったのだ。
海馬くんは、まだキスとかそんなことには興味がないんだって。
馬鹿らしい。海馬くんより、ボクのほうがよっぽど子供だよ。くだらない。いつまでも海馬くんを独り占めしておきたいなんて……。
「遊戯」
そこまで考えたとき、バサッと音がして、軽い風圧と共に急に目の前が真っ暗になった。
「! か、海馬くん?」
海馬が、かけていた羽布団を持ち上げて、二人の上にすっぽり頭からかぶせたのだと気づいて、遊戯は目を見開いた。
真っ暗で何も見えない。
でも、すぐ近くに海馬の気配がした。だって、海馬の片腕が自分の肩の上にまわされている。足にも海馬の体のどこだかが触れている。
ひどく、熱い。
「遊戯」
その海馬の声が、思ったよりもずっと近くて、遊戯はドキッとした。
「な、なに?」
「キスしてみるか」
オレと。
内緒話をするときのような押し殺した声で、海馬がそう言った。
「…………」
短い沈黙だった。なんて答えていいかわからなかった。すぐに二人の呼吸で、布団の中の狭い空間が熱く湿っていく。
真っ暗闇の中、海馬の指先らしき何かが自分の顔に触れた。
遊戯は驚いて目を細めた。だが、拒絶しようとは思わなかった。
それは、ゆっくりと確かめるように遊戯の頬をたどって、やがて唇に到達した。それから、海馬の顔が遊戯に覆い被さってくる。顔に海馬の息がかかる。
海馬の唇が自分と重なった瞬間、遊戯はつられるように目を閉じた。
そのまま、口を開いて舌を差し出して、海馬を求める。海馬の口の中はびっくりするほど熱くて、その湿った粘膜の感触に遊戯は震えた。
キスしてる。
今、海馬くんと、キスしちゃってる。
わけのわからない感情がこみ上げてきて、遊戯は海馬にすがりついた。
海馬の長い腕が、ぎゅうぎゅう遊戯を抱きしめてくる。苦しい。息を止めていたことに気づいて鼻から息を吸うと、海馬の匂いでいっぱいになった。
いつのまにか、二人を包んでいた布団はどこかへいっていた。
海馬は、何も言わなかった。
遊戯も同じだった。こんなとき、何を言っていいのか、わからなかった。ただ、自分と海馬の荒い呼吸を聞いていた。
そこから先はもう、何も考えられなかった。
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