◆2

 翌週明けの月曜日、さらに事態は悪化していた。

 登校してすぐに遊戯の姿を探すと、そこには、左手ばかりか右手までもがブルーアイズになってしまった遊戯がいた。
 学ランの両袖の先から、メタリックなかぎ爪がギラギラ光っている。ちいさな遊戯の体には不釣り合いな大きさだ。
 遊戯はそのサッカーボールほどもある大きな手を器用に操って、ペラペラ教科書をめくったり、ノートに何か書いたりしていた。一種異様な光景だ。
 だが、もちろんそれを見ても、誰も何も言わない。気にもとめない。
 普段通り、しゃべったり笑ったり、時にはその鋭いかぎ爪に触れたりしている。
 ……やはり、オレだけか。
 海馬はイライラしながら、その様子を横目でうかがった。
 これは、幻か?
 オレだけが幻覚を見ているのか?
 それとも、オレ以外の全員が幻覚を見ているのか?
 いや。そもそも、これは幻覚なのか……。
 考え始めると、きりがない。
 もともと海馬は理論派で、説明できないようなことが大嫌いなのだ。気が長いほうでもない。こうなると、もう我慢ができなかった。



「来い遊戯!」
「かっ、海馬くん!?」

 放課後、校門の前で海馬は遊戯の襟首を掴んで、乱暴に車の後部座席に放り込んだ。
 遊戯は「わっ!」とちいさく悲鳴をあげたが、とくに抵抗する様子はない。脅える様子もない。
 もぞもぞとシートに座り直すと、こっちを見上げて「どうしたの? 何かボクに用でもあるの?」と、不思議そうに小首をかしげた。
 その遊戯の隣に腰をおろした海馬は、質問には答えずに、車を出すよう運転手に指示する。
「あの……、海馬くん」
「なんだ?」
「どこ行くの? 会社? 海馬ランド? それとも海馬くんち? その……」
 デュエルするんだよね?
 確かめるようにそう聞いた遊戯に、「ふぅん」と海馬は吐き捨てた。
「できるのか? 貴様に」
「え? ……ああ、うん。デッキなら持ってきてるし」
 ごそごそと鞄から取り出したデッキを、「はい」と海馬に見せる。
 巨大な爪先にちょこんとつままれたカードが、妙にアンバランスでとても小さく見えた。
「違う。『その手』で出来るのかと言っているのだ、デュエルが」
「……はぁ? 手?」

 デッキを持ったまま遊戯は、自分の手を表にしたり裏にしたりしてしげしげと眺めすかした。

「あの……ボクの手、どっかおかしい? 変なところある?」
「…………」
「そういえば、このあいだも海馬くん、手がどうとか言ってたよね」
「…………」
「え〜と……心配してくれてありがとう。でも、べつに手は何ともないから。デュエルだってちゃんとできると思うよ」
 ほらね。
 遊戯がカードを軽くシャッフルしてみせる。
 海馬は食い入るようにそれを見つめた。
 カードは、ブルーアイズのかぎ爪には小さすぎる。だが、不思議と手からこぼれることなく、磁石のようにピッタリと爪先にくっついている。
 どうやら、こんな手でもカードは扱えるらしい。
 海馬は腕を伸ばして、おもむろに遊戯のブルーアイズの部分を掴んだ。

「……!」

 冷たい。
 その予想外の冷たさと硬さに、息をのむ。
 いかに金属に見えようと、遊戯の手である以上、なんとなく温かいような気がしていたのだが、まるで違った。
 見た目どおり、ひんやりと冷たい金属の感触。

「な、なに? 海馬くん、いきなり何……」
「感じるのか……?」
 かぎ爪に指を滑らせながらそう聞くと、なぜか遊戯の顔がボッと赤くそまった。
「え……ええええぇっ!? なっ、何言ってるの!?」
「感じるのかと聞いている」
「かっ、海馬くん……!」
 もう、変な冗談やめてよぉ、と小声で呟いて遊戯がもぞもぞ手を引っ込めようとする。その頬は、熟れたリンゴのように真っ赤だ。
 たぶん、触れば熱く柔らかいのだろう。この金属でできた手と違って。
 海馬は遊戯の手を放すと、どっかりとシートに座り直した。「はぁ」とちいさく遊戯が溜息をつくのが聞こえた。


「海馬くん」
 そのまましばらく無言でいると、おずおずと遊戯が話しかけてくる。どこか困ったような声だった。
「あの……それで、今日は何の用なの? どこに行くつもりなの?」
「もう、用は済んだ」
 海馬は正面を向いたまま、遊戯の顔を見ずに答えた。
「え? 何それ? どういうこと?」
「そのままの意味だ。家まで送ってやる」
「じゃあ、デュエルしないの?」
 海馬は「くだらんことを言うな」と横目で遊戯を見下ろした。
「えぇ!? だって……」
「貴様とオレが闘うには、それ相応の舞台が必要だろう」
「そ、そうなの?」
「いいか。次に貴様とオレが闘うときは、真の決闘王を決めるときだ」
 軽々しくできるものじゃない。
 そう言うと、遊戯は「そっかぁ」と残念そうに呟いた。
「ボク、海馬くんとデュエルしてみたかったんだけどな〜」
「いずれ必ずそのときは来る」
「うん……」
 遊戯は苦笑しながら、海馬を見上げた。

「でもボク、今まで一度もキミとデュエルしたことなかったから」
「?」

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。
 だが、そう言われて初めて海馬は、その事実に思い至った。
 自分と遊戯は、何度も闘ってきたライバルだ。
 だが、今目の前にいるこの武藤遊戯は、海馬が闘ってきた遊戯ではない。アテムではない。

「だから、ずっと海馬くんとデュエルするの楽しみにしてたのに」
「…………」

 残念だなぁと笑う遊戯を、海馬は奇妙な気持ちで眺めた。
 だが、もちろんこの男が自分のライバルであることには、変わりない。
 コイツは三体の神を倒し、アテムを葬った。
 その瞬間から、この遊戯こそが、自分のライバルになったのだ。
 オレのライバルは、最強の男でなくてはならない。
 当然だ。それでいい。それでこそ、このオレにふさわしい。



「着いたぞ」

 亀のゲーム屋の前に車をつけると、遊戯が「ありがとう」と軽く会釈した。それから、
「あのさ、海馬くん」
 と、上目づかいで少しはにかむように言った。
「これからは一緒に帰ろうか」
「なに?」
「う、うん……だって、いきなり車に乗せられたりすると、何事かってびっくりするからさ」
 あっ、もちろん一緒に帰ること自体は大歓迎なんだけどね。と、早口で言い訳らしき言葉を追加する。あいかわらずその頬は、ピンク色に上気したままだ。
「でもほら、みんなも見てるし。たぶん心配してると思うから」
 だから、今度はみんなで一緒に帰ろうよ。
 楽しいぜ〜、きっと! 買い物したり、ゲームやったり、おしゃべりしたり、買い食いしたり。

「………………」

 大きな目をキラキラさせてそう語る遊戯に、一気に不愉快になった海馬は、乱暴に車のドアを開けた。

「勘違いするな。オレは貴様と友情ごっこをするつもりなどないわ!」
「え。だって…………うわっ!」

 海馬に突き落とされるように、遊戯の体がシートから外へ転がり落ちる。その拍子に、鋭いかぎ爪がキキキィッと嫌な音を立てて車の窓ガラスを引っ掻いた。
「あっ、海馬くん!」
 ごめん。ボクは、ただ、キミともっと……!
 尻餅をついたまま遊戯が何か叫んでいたが、海馬はそのままドアを閉めた。早く発車するように運転手に告げる。
「…………」
 車が走り出した後、海馬はさっきまで遊戯が座っていたシートにゆっくりと指を這わせた。まだ温かい。遊戯の体温を感じる。
 そのまま、去り際、遊戯のかぎ爪が派手に引っ掻いた窓ガラスを見つめた。

 だが、透明なガラスには、何の傷跡も見あたらなかった。