◆1
三月である。
クマが遊戯の家に無理矢理居候してから、はやくも一ヶ月が過ぎ去っていた。
年度末ということで、遊戯も忙しかった。やけに完璧を求める社長のせいで、書類の数字の違いはヒトケタたりとも許されない。銀行員じゃないのにとみんなでぼやきながら、残業と根性でカバーした。なんとか家に帰っては来ていたものの、いつも終電間際だった。
それも今日で終わりだ。
「ただいまー」
「おかえりー」
居候のクマは、いつものように着ぐるみ姿でごろりと布団の上に横になりながら、テレビをみていた。和室のふすまを足でぐいっとあけて、家主の顔をみる。それで誠意をみせているつもりらしい。
「メシは?」
「食べてきた」
予想していたらしく夜食の用意はされていない。もっともこのクマは、あまりまめまめしく食事をつくったりはしないのだが。
「明日、休み?」
「うん、おやすみ」
遊戯は背広をハンガーにかけると、さっさと風呂に入ることにした。クマが来てから風呂と布団だけは助かっている。クマはごろごろするのが好きらしく、そのための労力だけはおしまないようだった。布団はまめに陽に干し、風呂は毎日キレイに洗いお湯を張る。おかげで毎日熱い風呂につかり、ふかふかの布団に眠れるのだ。これだけでも、城之内くんが居てくれてよかったかなーなんて思ってしまう。点数が甘すぎだ。
うちの奥さん、悪妻なんだけどさーとのろける職場のひとの気持ちがなんだかわかるなぁと思いながら、遊戯は湯につかった。
パジャマに着替えて髪を拭いて、布団に潜り込む。
クマはテレビを消した。立ち上がって電気も消す。
「別に、まだ見てていいのに」
「いいよ」クマは布団の上に横臥して、片手で頬を支えながら遊戯をみつめた。「それよか、する?」
遊戯は顔を赤らめた。
あれ以来、そういうことをしている。
サービスだから。
お前も若いし、やりたい盛りだろ?
それほど血気盛んなお年頃ではないと思うものの、枯れきっている年でもない。
誘われて「結構です」と言うには、クマこと城之内がもたらす快楽は甘すぎた。
たぶん本当に上手なのだ。比較対象がないからはっきりとは言えないけれど、その手のことには初心者の遊戯が良くなってしまうんだから上手なんだろう。最初は口封じのためにしたのは本当だろうけれど、そのあとは、向こうもまんざらではなさそうだった。城之内の方も、クマ形態になってからはご無沙汰だったらしい。「だって気持ちいいんだもんよ、お前」と言われると、顔を赤くするしかない。
クマの着ぐるみのせいか、抱き込まれるとほかほかと温かくてうっとりしてしまう。最近ではこの着ぐるみも遊戯の居ないうちに洗っているようで、ほのかに石けんと太陽の匂いがする。
こんな着ぐるみ男相手に、気持ちよくなるなんてヘンだ。
とてもヘンだ。
激しく変だ。
だから彼女とかさっさと作っておけばよかったんだよ。バカバカ、ボクのバカ。
そう思うのに、耳元で「しようぜ」とささやかれて、クマのふかふかの手が遊戯の身体をはい回りはじめると、無条件降伏をしてしまう遊戯だった。
*
翌日。
遊戯はひさしぶりに寝坊をした。もそもそと布団からはい出して、壁に掛かった時計をみる。もうそろそろお昼という時刻だった。クマの姿は見えなかった。
(どこ行ったんだろ)
ぼさぼさの頭を撫でつけながら、顔を洗い、服を着替えた。トーストを焼いて、牛乳をくわえて温めるだけのスープをつくった。キャンベルのコーンスープはおいしい。
食事を終えても、クマはまだ戻ってこなかった。トイレに行ってみたが、そこにも居なかった。ベランダから外を見回してみたが、アパートの前のちいさな公園にも、脇の路地にも居なかった。あの格好で外に買い物にでも行ったんだろうか。
それとも。
(出ていったのかな)
ある日突然やってきたクマだった。ある日突然居なくなってもおかしくはない。
本当に居なくなってしまったんだろうか。
胸の中を冷たい風が吹き抜けるみたいな気持ちになった。
遊戯の家から無くなったものは、なさそうだった。それどころか、遊戯が着ぐるみの替わりに、これ着てよとプレゼントした服や靴なんかは、そのまま置いてある。新しく買ったクマ用の歯ブラシも、コップも置きっぱなしだ。
でも、いらないのかもしれない。
そういうものを、あのクマは持っていく必要はないのかもしれない。
遊戯は想い出を大切にする方で、これまでの人生のいろんなことはちゃんと仕舞っておくタイプだった。彼女は出来たことないし、高校にあがるまでは友人も居なかったけど、高校一年のときに出会った大切なひとのことは、いまでもまだ覚えている。
彼のおかげで、海馬くんや獏良くんのような友人もできたのだ。
彼のことを思い出すと、今でも泣きそうになる。「もうひとりのボク」と呼んでいたように、友人よりももっと近い存在だった。とても好きだった。大好きだった。彼のためなら何でもできたと思う。誇張でもなんでもなく、なんでもあげられたと思う。記憶もあげたし、自分の心臓を半分あげろといわれたら差し出したと思う。
それでも彼は行ってしまった。行かせてしまった。そうすることが一番大切にすることだと思っていたから。
あのクマは、別にそんな風に大切なわけじゃない。
何もかも差し出したりする気にはなれない。
いきなりやってきただけだ。
ただの居候だ。
どちらかといえば、でていって欲しいと思っていた。
それなのに、寂しいと思うのだ。
いなくなると火が消えたみたいにからっぽになってしまったと、そう思うのだ。
(ああ、そっか)
さびしくなるから。
誰かと仲よくなると、淋しくなるから。
居なくなったら、哀しいから。
だから、誰とも付き合わなかったんだ。
遊戯は自分は本当にバカみたいだと思った。いやバカみたいじゃない。バカだ。今頃になってわかるなんて、本当に自分は馬鹿だ。あのとき出来た友人たちだけを大切にして、それでいいと思ってたんだ。彼らなら、ぜったいに何があっても居なくならないから。会えなくなっても、ずっと友だちで居られるって信じられるから。
大学に入ったときだって、それなりに親しい友だちは作ったけれど、それだけだった。
コンパとか女の子と会う機会だってあったけど、苦手だからってそれで終わりにしてた。
大事なひとを作るのが怖かったんだ。
自分に近いひとを作りたくなかったんだ。
ボクは、あいかわらず臆病で弱虫だ。
遊戯は熱くなった目頭を手の甲で擦った。
あんなクマ相手に、ばかみたいだ。ボクは。
こんなことで、泣くなんて。
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