◆3

 ボクはもしかして失恋したんだろうか。
 好きだったんだろうか。
 好きだったけど。

 そうだ。好きだったんだ。



「武藤さん。武藤さんってば」
 肩を叩かれてビクッとした。
 振り向くと、後輩の同僚がいぶかしげな顔でこちらをみている。
「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか?」
「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「顔色悪いですよ。具合悪いなら、医務室行ってきたらどうです?」
 心配そうにのぞき込む。遊戯は首を振った。
「ちょっと休憩いれてくる。別に具合悪いわけじゃないから」
 遊戯は、喫茶コーナーに行ってコーラを買った。向こうに見える硝子張りの喫煙室の中では、もくもくと煙があがっている。中にいた同期が遊戯をみつけて、片手をあげた。遊戯も無理矢理笑って返す。
 なんか、変だな、ボクは。
 表情が上手く作れない。
 同僚はブースから出てきくると、今日の夜空いてるかと遊戯にたずねた。
「飲み会。急にいけないやつが出来ちゃってさ。女の子来るぜ?」
 海馬ランドの女の子だとうれしそうに言う。スタッフの女の子たちはレベルが高くて人気があった。
「そうだね……」
 生返事をしていると、不審そうに顔をのぞき込まれた。
「もしかして、調子悪いのか?」
 顔色悪いぞと、さっきと同じようなことを聞かれた。そんなに具合が悪そうに見えるのだろうか?
「別に、体調が悪いってわけじゃないよ」
 コーラをごくりと飲んだ。炭酸が喉を焼く。
 ただ、最近あんまり寝てないだけだ。静かすぎて、寝付けないのだ。隣でいびきをかいて、ごろごろと寝相わるく転がってるクマがいるのに慣れていたから。
「今日はやめといたほうがいいかもな。定時であがって、さっさと帰れよ」
「うん、そうするよ」
 ありがとうとなんとか笑顔をつくって答える。
 いい加減にしろよ、ボクは。女々しすぎるぞ。仕事に影響だしてどうするんだよ。海馬くんを見習えよ。
 高校時代にはとっくに社長業についていた友人を脳裏に浮かべる。尊大で、理不尽で、敵が多く、とかく人間性を疑われる男だったが、ソリッドビジョンの開発にしろ、ディスクシステムの設計にしろ、彼の能力にケチをつける人間は居なかった。
 あんなにいろんなことがあったのに、ずっと休まずに社長やってるんだもんな。
 えらいよな。
 ボクはほんとにいつまで経っても、情けない弱虫で意気地無しのチビだなぁ……。
 人に誇れるようなところなんてない。たしかにデュエルで負けたことはないが、裏を返せばそれだけだ。海馬くんや御伽くんのように何かを作り出したわけじゃない。好きでやっていただけだ。いずれもっと自分より強く、ゲームを愛するひとだってたくさんでてくるだろう。それでいいと思うし、そうなればいいと思う。
 情けないのも知ってる。気が弱いのもよく知ってる。
 もうひとりのボク。彼が居なくなった後だって、そうだった。もうずっと平気なつもりでいた。大丈夫なつもりでいた。それでも、あのときの痛みをずっと忘れていなかったのだ。
 あのクマがやってくるまで。
 城之内くんに出会うまで。
 なんで、城之内くんがいなくなっただけで、こんなにショックなんだろう。
 仕方ないじゃないか。
 人間は、ふたり居れば諍いは起きるものだ。
 意見が合わないときだってあるのはあたりまえだ。
 喧嘩をして別れたって当然のことだ。
 もうひとりのボクじゃない。ボクの半身じゃない。彼はボクのことなんて興味なかった。もうひとりのボクみたいにボクのことを大事に思ってくれたわけじゃない。大切にしてくれたわけじゃない。ただ同居してた。それだけだ。
 それでも、一緒にいると楽しかった。
 喜ぶ顔がみたかった。
 なんでなんだろ。
 好きだったのかな。
 城之内くんのこと。

 好きだったけど。

 でも、もう終わってしまったことだ。
 それだけなのだ。




 定時で会社を出た。
 帰って食事をする気にもなれなかったから、駅を降りてからコンビニでプロテイン入りのゼリーを買って飲んだ。
 店を出ると、歩道にあるベンチで仲の良さそうな恋人たちがぴったりとよりそって手を絡み合わせて仲よく話し込んでいた。ほほ笑ましいなと、遊戯は思った。
 彼女、ほしいよな。
 ちょっとでも気合い入れて、飲み会に行けばよかったかな。
 そんな風に思ってみるものの、遊戯にだってわかってはいるのだ。
 別に彼女が欲しいわけじゃない。
 部屋に戻り、スーツを脱いだ。
 コタツに入ってテレビをつけていたが、そのうち見る気もなくなって、ごろりと畳の上に横になった。
 部屋のあちらこちらにうっすらと埃がつもっている。最近、ぜんぜん掃除してないんだっけ。死にはしないからいいや。
 たん、たん、と何か打っているような音が聞こえてくる。いぶかしげに、窓の外をながめると、雨が降っていた。かなり強い雨だった。ベランダに洗濯物があるのに気が付いた。すっかり忘れていた。昨日、洗濯物がいっぱいだったから、朝干して行ったんだった。
 あわてて立ち上がり、取り込み始める。
 冷めたい空気に身体をちぢこまらせながら、とりこんだ洗濯物をとりあえず部屋の隅にほうりなげた。
「まったくもう……もう一回洗い直したほうがいいかなぁ……」
 なんとか濡れていないやつだけを畳む。シャツはクリーニングに出すので、靴下と下着がほとんどだった。手が水玉のパンツを掴んだ。それを見た途端、遊戯は泣きそうになった。
 なんで城之内くんのパンツなんて残ってるんだよ。
 何も持たないで行ったのだから、あたりまえだった。
 ため込まないでさっさと洗濯してしまい込んでおけばよかった。
 遊戯は、きつく水玉のパンツを握りしめた。こんなものを見て、泣きそうになるなんておかしい。おかしすぎる。笑ってしまう。
 なのに何でボクは泣いてるんだろう。
 パンツを握りしめてなく男なんて、すごく間抜けだ。
「ちきしょう……」
 間抜けでもいいや。だれが見てるわけじゃないし。
「城之内くんのバカ」
 そうだ、好きだったんだ。
「城之内くんのバカ」
 一緒に暮らそうよって言えば良かった。
 好きだって言えばよかった。
 一度も言わなかった。
 大好きだって言えばよかった。
「城之内くんのバカ……!」
「そんなバカバカ言うなよ」
 遊戯は顔をあげた。びっくりした。
 なんで。
 どうして。
 どうやって。
「城之内くん……」
 クマが居た。
 着ぐるみのクマが、遊戯の目の前に立っていた。
 なんで、クマがここに居るんだろう。
「わすれもの、とりに来た」
 雨に濡れたのか、すこし変色している。
 遊戯は手にしたパンツを見た。
「ご、ごめん……」
「なんで謝るの」
「鼻水つけたかもしんない」
 手で鼻を擦る。クマはティッシュの箱をとって遊戯にわたした。なんだかもう恥ずかしいところを見られつづけてるなと思いながら、開き直って遊戯は鼻をチンとかんだ。クマは遊戯の前にすわりこんだ。
「パンツ、洗っとくよ」
「うん」
「連絡先教えてくれたら、送るから」
「いいよ、別に」
「でも、せっかく取りに来たのにさ」
 わざわざ来たぐらい気に入ってるのなら、ちゃんと洗って返したい。それとも、自分には連絡先を教えたくないということなんだろうか。遊戯の気持ちは暗く沈んだ。
 言いたいことはいくらでもあった。それでもいざ城之内を目の前にすると、何を言えばいいのか、思いつかなかった。
 いまさら、好きだって言ってどうする?
「いや、忘れ物、それじゃないから」
 それじゃ何だというのだろう。確かにクマが置いていったものはいくつもあるけれど、下着や生活用品程度で、どこででも手に入りそうなものばかりだった。わざわざ取り返しに来る必要があるとは思えない。
「今日、オレの誕生日なんだ」
 ぽつりと、クマは言った。
「誕生日」
 遊戯は繰り返した。
「だから、プレゼントやるよ」
「誕生日ってプレゼントをもらうものじゃないの?」
「いや、そうだけど」遊戯の疑問をよそに、クマはひょうひょうと言った。「オレさ、お前に借金あるしさ」
「別にいいよ」
 返してもらう気なんてない。とっくにあげたつもりだった。
「よくねぇよ。時間かかるけど、ちゃんと返すよ」
 そっか。遊戯は小さくうなずいた。
 やっぱり、へんなところで義理堅いのだ。
「だけどよ、オレ、仕事先みつからなくてさ。地元帰ったけど、ろくな知り合いいねーし。顔みるなり、金の話しかしねーとか。ほんとしょーもねー奴しかいなくてさ」
「うん」
「だから、お前が雇ってよ」
 遊戯は、目を見開いてクマを見た。
「永久就職してやっからさ」
 遊戯は口をぽかんとあけた。
「いいプレゼントだろ?」
 クマの顔はあいかわらずだった。わかるわけがない。着ぐるみだ。それでも、妙に恥ずかしそうに顔のあたりをこりこりと掻いている。遊戯から顔をそらすくせに、何度もちらちらと様子をうかがっている。
 しばらく、そうしていたような気がする。
「なんだよ、なんか言えよ!」 
 痺れを切らしたクマがせっついた。
「なんかって」
「せっかく決め台詞考えてきたのによ!」
「決め台詞」
 なんなの、決め台詞って。
「お前、オレのこと好きだろ」
 いきなり、そんなこと言うし。
 勝手すぎるだろ。
 ずうずうしいだろ。
 常識ないだろ。
 最低だろ。
「好きって言えよ」
 そんなの。
 そんなの。
 そんなの。
「好きに決まってるだろ!」
 じゃなきゃ、あんなほつれた汚いパンツ握りしめて泣くかよ!
 クマの着ぐるみを着た男と、ずっと一緒にいるかよ!
 居なくなって、淋しくて、おかしくなりそうになるか!

「ちきしょう、大好きだ!」

 遊戯の告白を聞くと、クマは満足そうに言った。

「オレも好きだぜ、遊戯」

 バッカじゃないの。
 遊戯は、憤然として立ち上がるとクマの頭をずぼっと引っこ抜いた。城之内が、びっくりして、目を丸くしている。遊戯は、その首に抱きついて、唇をぎゅっと押しつけた。

 ああ、くそ。大好きだ。
 一生借金返してろ。