◆2
あれから三日たった。
クマはまだ、遊戯の部屋にいる。
そりゃ居てもいいとは言ったけれどさ。
*
翌日からはみぞれが雪になって、その翌日も雪が降り続けた。今日は、からりと晴れていい天気になったけれど、とけた雪であたりはびちゃびちゃに濡れていて、野宿なんてできそうにない。いくら着ぐるみを着ているとはいえ、夜になったら凍り付きそうだし。
そんなわけで追い出せずにいるうちに、三日目になった。
クマは別になにもしなかった。
何かを持ち出して売ることもないし、家の中を荒らすこともない。誰かを連れ込んだりもしていない。
いつものんきにごろごろと和室で寝っ転がっているだけで、あとは本当になにもしない。
一日目の夜は、キッチンの床で寝ていたが、夜中にしきりにクシャミの音が聞こえてくるので、和室に客用の布団をひいて、一緒に並んで寝た。けっこう寝相が悪かった。
二日目に雪まみれになりながら家に帰ると、冷え冷えとした部屋の中で、腹が減ったと泣きながら、ごろりと陸揚げされたまぐろのように仰向けに寝ていた。
勝手に冷蔵庫をあけたら悪いかと思って、水で我慢していたそうだ。
せんべいは食べたくせに。
正月の残りの餅や、ありあわせの野菜をつっこんだ鍋物をつくってやったら、涙声になりながらうまいうまいと喜んで食べた。真っ当な食事をとったのは半月振りだぜと、満腹になった腹をさすりながら、畳の上に転がっていた。古めかしいリノリウムの床のキッチンは底冷えがするので、和室にちいさなコタツを置いてそこで食事はとっている。和室は8畳ほどあって、1DKにしては広めだ。
どっちにしろ、寝っ転がってるんだなと思いながら、遊戯は「暖房とか、冷蔵庫の中のものは、適当につかっていいからね」とクマに言った。
「ほんとにいいの?」
「無駄使いしないでくれればいいよ」
しょせん一人暮らしの男の部屋だ。高価な食材があるわけでもない。
クマはちょっと呆れたように耳の付け根当たりをぽりぽりとかいた。寝ころんだ頭の下には二つ折りにしたざぶとんが枕代わりになっている。
「お前って、ちょっとお人好しだよな」
悪かったな、お人好しで。
昔っからそれは友人にもよく言われていることだった。
とくに悪友の獏良 了には、「遊戯くんは、お人好しすぎるから、女の子とうまくいかないんだよねー。だから三千年前の人間にとりつかれたりしたんだと思うけど」なんて、大学時代によく言われたものだ。
自分だって取り付かれてたくせに。
まあお互い、そういう軽口を叩けるようになっただけでも進歩なんだろう。
思ったことをすぐに口に出すタイプの獏良とは、高校時代からの腐れ縁だった。彼は、通りすぎるひとがびっくりして戻ってきて見直すぐらいのとびっきりの美形だった。おかげで付き合ってくれという女性が切れたことがない。しかし、本人の自覚してるのかしていないのかわからない毒舌っぷりと、「三次元はあんまり興味ないんだよねー」というオタク趣味(オカルト・フィギュア系)のせいで、女性と真っ当に付き合ったことはないようだった。
この家にあそびに来るのも彼ぐらいである。別の友人の、御伽や海馬のところには、こちらから遊びに行く方が多かった。
その獏良も、寒い冬のこの時期には、わざわざ遊びに来ることもない。せいぜいメールを送ってくるぐらいだ。お互いインドア派なのだ。
だから別に、この部屋にクマが一匹ごろごろしてても、特に問題になることもなかったのである。
「ねえ、お茶のむ?」
「うん」
それなのに、なんで、こんなに和んでいるんだろう。
見た目が、かわいいせいなのかな。
中身はどうせ、しょぼくれたおじさんなのに。
悪い人じゃなさそうだけどさ。
遊戯は、獏良の置いていった女の子のキャラクターの絵のついた湯飲みに、番茶を入れて出してやった。クマは不思議そうな顔で、湯飲みをながめていた。
*
三日目ともなると、クマは堂々と居着いていた。
「ボク、お風呂はいってくるからね」
「んー」
もうどっちが家主なんだかわからない状態である。
このところ寒いので湯にゆっくりつかって温まった。風呂は、キッチンのある部屋、玄関を入ってすぐの左にある。トイレは隣で別だ。ありがちなユニットバスだった。
ほかほかになって和室に戻ると、クマはこたつに入ってごろごろとテレビを見ていた。
「布団しくから、こたつどかして」
「んー」
生返事をしながら、クマはこたつを部屋の隅にずいっとよせる。それから遊戯と一緒に布団をしいた。自分からはあまり動かないが、言えばそれなりにやってくれるのだった。
「頭、乾かしてこいよー」
ぱふぱふと、枕を叩きながらクマが言う。
「うん」
「ドライヤー、やってやろうか?」
ちょっとは家主に気を遣っているのか、クマはふとんの上にぺたんとあぐらをかき、自分の膝の上を指さした。ここに遊戯に座れと言っているらしい。別にお子様じゃないから、自分でできるのになと思いつつ、好意ぐらいは素直に受け取ろうと大人しく座った。
もってきたドライヤーを渡してクマの腕の中にすっぽりはいる。
温かいし、なんだか毛布に包まれたみたいな気持ちになる。
わるくなかった。
遊戯は頭を乾かしてもらいながら、うっとりと目をつぶった。「お前の頭っておもしろいよなー」って、生まれつきだからしょうがないじゃんと遊戯は心の中で抗議した。だいたい面白いのは髪型であって、頭がヘンなわけじゃない。
ぶおんと、ドライヤーの音を聞きながら、妙なにおいにクンと鼻を鳴らす。なんかヘンなニオイがする。髪が焦げてるわけじゃないし、生ゴミの処理を忘れたわけじゃない。でも、ちょっと臭う。なんだろ、これ。
遊戯は、ふと思いついて、くるりと振り返った。クマは遊戯のしぐさにいぶかしげに首をかしげたが、それは無視して、ちゃいろい胸もとに顔を埋めた。くんくんと匂いをかぐ。
「どうかしたか?」
「ねえ」
「なんだよ」
「お風呂、いつ、入った?」
クマはドライヤーを止めた。もふもふした指を折って数え始める。両手で足り無さそうで、足まで使い始めた。すでに見当がついてなさそうである。そういえば、真っ当なご飯をたべたのは半月ぶりだと昨日言っていた。それってつまり――。
「風呂! 入ってきて!」
遊戯はぴょんと立ち上がって、風呂を指さした。幸い、まだ湯は抜いていない。
「いや、でもさ。風呂まで世話になるなんてさ」
クマは頭をかいたが、困るのは遊戯の方である。
「いいから! 入ってきて! 清潔にして! その着ぐるみも脱いで!」
「そりゃ困る」クマは本当に困ったように腕組みをした。「こいつは脱げないんだよ」
「呪いが掛かってるとでもいうわけ?」
クマは首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「じゃあ、いいじゃない」
「顔見られたくないんだよ」
「見ないから」
「ホントに?」
「本当に」
遊戯にとっては、別に顔なんて見なくてもいいのである。どうせ、しょぼくれたリストラおじさんだろうし。これ以上親しくなっても、それはそれでまた問題だし。せめて来週ぐらいには出ていってもらいたいし。
クマはしばらく遊戯の顔をみつめていた。
「絶対に見ない?」
「うん」
「絶対だぞ?」
「見ないよ」
「約束だからな」
「わかった」
それだけ言うと、不承不承クマはうなずいて、のっそりと立ち上がった。
「でも呪いってさ、お前って、やっぱ子供っぽいなぁ」
やっぱりって何だよ。子供っぽいわけじゃなくて、単に実体験が元なだけだ。
むっとしてへの字口になった遊戯をよそに、のそのそとクマは風呂場に向かっていった。
*
ざばんと湯の流れる音がする。クマは風呂にはちゃんと入ってるみたいだった。極楽、極楽と、鼻歌まじりの声まで聞こえてくる。久しぶりのお湯だ。さぞかし気持ちもいいんだろう。
パジャマ姿の上に、厚手のカーディガンを羽織った遊戯は、着替えを用意して、風呂場の前の籠の中に置いた。バスタオルに、獏良の置きパジャマ(キャラクターの絵付き)とパンツである。パンツは、年末の忘年会のビンゴで当たってしまった黒いビキニだった。さすがにこのパンツを身につける気にはなれなくて、取っておいたのだ。
(おじさんに似合うか、わかんないけど。清潔だし、いいよね)
洗面所の前には、クマの皮ならぬ着ぐるみが置いてあった。いっしょに脱いだらしい水玉のパンツが中に入ったままだった。白地に青の水玉だった。
顔を近付けてみると、かなり臭う。これも洗った方がよさそうだ。とりあえず洗濯機にパンツだけ放り込んだ。
しかし着ぐるみの方は、どうやって洗えばいいんだろうか。
うーんと首をひねっていると、風呂場の方から声が聞こえた。
「なあ、ひげ剃り、ねぇか?」
「あ、うん」
遊戯はあんまり使っていない(ほとんど見栄だけで置いてある)ひげ剃りを洗面所から持ってきた。
「開けるよー?」
「手だけ入れろよ。こっちみんなよ」
「わかった」
少しだけ開けたガラス戸のすきまから、にゅっと腕が出てきた。意外なことに、たくましい、引き締まった若々しい腕だった。遊戯はちょっと驚きながら、ひげ剃りをクマの手に渡した。
「さんきゅ」
また、にゅっと腕がしまい込まれて、パタンと扉が閉まった。ガラス戸越しに肌色のものが動いているのが見えるが、さすがに顔まではわからない。
(びっくりした)
予想よりも、クマの中身は遙かに若そうだった。遊戯と同じぐらいか、もう少し年上か。おじさんというのにはちょっと語弊があるぐらいだった。腕しか見てないけど。
(どんなひとなんだろ)
好奇心がむくむくと沸いてきた。
さっきまで、クマの中身なんかにちっとも興味はなかったのに。
本当に若いのかな。若く見えるだけなのかな。そこそこ若ければ、別にボクのうちなんか来なくても、そこそこ働き口ってあると思うんだけど。そりゃ就職するのは難しいかもしれないけど、アルバイトや日雇いの仕事で稼ぐことぐらいはできるはずだ。リストラじゃなくて、他の原因で仕事できないのかな……。
失恋したとか。
いや、その場合は、顔を隠す必要はないよね。
仕事ですごい失敗をしたとか?
その会社で仕事をするんじゃなければ、別に顔を隠さないでもいいだろう。
そもそも顔を隠すってことは――。
(やっぱり、犯罪者なのかなぁ……)
だったらごろごろ寝ていないで、もう少しらしいことをしてもいいはずである。金目のものはないけど、テレビやゲーム機を質屋にでも持っていけば少しは金になるはずだし。
(顔にすごい怪我をしてるとか……二目と見られない様相とか……)
佐清(すけきよ)かよ!と遊戯は自分で突っ込みをいれてみた。それでは犬神家の一族である。ちょっとやそっとの怪我や跡なら別に気にしないんだけど。男同士なんだし。女の子とか、恋人同士相手ならともかくさ。
(どんなひとなんだろ)
遊戯は洗面台の棚から、新品のお客さん用歯ブラシを取りだした。友人用に置いてあるものだ。
「ねえ、歯も磨いたらどうかな?」
「おう」
うれしそうな声が聞こえてくる。
「歯ブラシ持ってきたよ」
「サンキュー。ちょっと待ってくれ」
ざばんと湯から上がった音がして、またドアが少しだけ開く。にゅっと突き出た手の上に、歯ブラシと歯磨き粉を置いた。腕が戻る間に、そっと隙間から中をのぞいてみる。背の高い男の後ろ姿が見えた。少し伸びかけた茶色の髪。引き締まった体つき。
風呂場の鏡の中に顔が小さく写って見えた。
人好きのしそうな、結構ハンサムで男前の顔だった。
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