◆1
「あ、おかえんなさい」
家に帰ると、クマが居た。
*
比喩でもなんでもなくて、本当にクマがいた。
クマといってもヒグマやツキノワグマみたいな、本物の山に住んでるようなクマではない。
着ぐるみのクマだ。
茶色い、ふかふかしたかんじのクマだった。
まるい顔に、まるい黒い目。耳もまるくて、全体的にかわいらしい格好をしている。
いかにも小さな子供や女の子がよろこびそうな、そういう着ぐるみのクマが、なぜか遊戯の部屋でごろりとクッションの上にねそべって、煎餅をばりぼり食べながら、テレビをみていたのだ。
遊戯はせまい玄関先で、濡れた革靴もぬがずに固まったままだった。
なんで。
どうして。
どうしてボクの部屋にクマがいるんだろう。
*
遊戯は一人暮らしだ。大学を卒業してから、会社勤めをはじめて、もう三年になる。独身で、彼女もいまのところ募集中だ。
年末年始の鬼のような忙しさからのがれて、ようやく定時退社ができるようになった。うきうきと好物のハンバーガーセットを購入して、積んでおくだけになったゲームでもやろうと、霙まじりの冷たい雨の降る中をいそいそと帰ってきたら、クマがいたのだ。
遊戯のマンションは細長い1DKで、玄関のドアをあけたら中がすぐ全部見えるつくりになっている。手前にちいさなキッチン、奥に寝室がわりにつかってる和室がある。クマは、その和室でまるで家主のようにごろりとねそべったまま、こちらを見ていた。
遊戯は、玄関先に立ち竦んだままでいた。
だって。
いや、だって。
(朝、鍵かけてきたよね。――っていうか、これ誰? 誰なの? 中に人間、入ってるよね。まさかソリッドビジョンとか?)
遊戯の勤めているKCという会社には、映像をさわれそうになるほどリアルな光景として映写するソリッド・ビジョンという技術があるが、それだって実際のところはただの映像だし、投射装置がなければ映し出されることもない。アミューズメントセンターならともかく、一介の独身会社員の部屋にそんな設備があるわけがなかった。
それとも、まさか海馬くんがボクの知らない間に用意したの?
いや、誰かのドッキリ? もしかして、獏良くん?
悪友の名前をあげてみるが、さすがにビックリ好きでもここまではしそうにない。
遊戯の混乱をよそに、クマはのっそりと起きあがり、せんべいの袋を片手にもったまま、ゆっくりと近づいてくる。
(ちょ、ちょっと待ってよ!)
酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせながら、遊戯は近寄ってきたクマをみつめた。
「せんべい、食う?」
クマは自分がかじっていたせんべいを差し出した。先日、遊戯が購入した草加煎餅だった。駅の構内で売っていて、売店のおばちゃんに呼び止められてつい買ってしまったのだ。
遊戯は、顔をあげて、じっとクマの顔をみた。近寄るとクマは結構大きかった。遊戯が成人男子にしては背が低いせいもあるのだが、それでも見上げるぐらいの高さにはなる。自分よりも30センチぐらいは高そうだと遊戯は思った。中はやっぱり男なんだろうか。声も男だし。老人のようなしわがれ声ではなく、子供の甲高い声でもなかった。変声期はとっくにすぎた大人の男の声のように聞こえる。背の高い女性がいないわけじゃないけど。男だろうな。やっぱり。
クマは黒いつぶらなひとみで、こちらを見ている。何の反応も返さない遊戯に、そっと声をかけた。
「うまいよ、このせんべい」
「知ってるよ! そんなの!」
「なんだ、しゃべれるじゃん」
クマはひょうひょうとした顔で言った。顔といっても着ぐるみの顔である。その下のたぶん存在しているはずの表情はわからない。わからないが神経が図太い男であることだけは間違いがない。いきなりひとの家に、こんなキテレツな格好であがりこんでいて、家主が帰ってきて逃げ出すならともかく、せんべい食う?である。しかもその煎餅は遊戯自身が購入したものなのだ。盗人猛々しいというか、とにかく誰なんだこのクマは!
だんだんと怒りがこみ上げてきた。遊戯は革靴をぬぐと、憤然として、和室に向かった。クマが使っていたクッションの上にどかりとあぐらをかく。
「君さ」
「うん」
クマは、遊戯の前にちょこんとすわりこんで目線をあわせた。膝をかかえて体育座りをしている。大きいけど、そういう仕草をされるとユーモラスだった。いや、和んではいけない。遊戯は頭を振った。かわいいクマの格好をしていようがなんだろうが、こいつは不審者で、ひとの不在時に勝手にあがりこんだ犯罪者なんだから。
「どこのだれなの」
「クマ」
「冗談やめて。なんでウチにいるの」
「入ってきたから」
鍵は掛かっていたはずなのだが。
「泥棒?」
クマは首をふるふると横に振った。
「行くとこ、なくてさ」
だからといって、家に入り込まれても困るのだ。ボクの家は避難所でも動物園でもない。遊戯はさらに問いただした。
「家は?」
「ない」
「家族は?」
「いない」
「仕事は?」
「してない」
「友だちは?」
「とっくの昔に縁切られた」クマはたんたんと答えた。「ついでに金もないし、頼る相手もいないよ。なんもないの、オレ」
家もない、金もない、仕事もない。ないないづくしだ。それはわかった。だが。
「なら、どうしてボクの家にあがりこんだのさ! ボクはお金持ちじゃないし、金目のものなんてないよ!」
遊戯の持っている資産といったらI2(インダストリアル・イリュージョン)社の株券とレアカードぐらいだが、そのどちらもKCの地下金庫にしまい込まれていて、所有者の遊戯でさえろくにお目に掛かったことがない。ちょうど月末で、振込だのなんだののために通帳も持ち歩いていたところだった。家にあるのはせいぜい小銭ぐらいだ。
憤(いきどお)る遊戯に、クマは平然と答えた。
「見ればわかるよ。金目当てだったら、ここ来ない」
「じゃあ、どうして!」
「今日、オレの誕生日なんだ」
ぽつりと、クマは言った。
「誕生日」
遊戯は繰り返した。
「寒いしさ。外で寝たら凍死すんだろ」
それはそうだ。もう一月だ。いくら雪のたいして降らない関東平野とはいえ、この真冬の夜空でろくな用意もせずに野宿をしたら凍死してもおかしくはない。今年はとくに厳寒だと評判だった。おまけに今日は霙が降っている。たしかに死ねる。
「オレさ、誕生日に死ぬのは、ちょっとさみしーなーって思ってさ」
だから、この家に来たんだとクマは言った。「迷惑だよな、ごめんな」なんて、しょぼんと所在なげに肩をすくめられても困る。中身はどうせ大きなむくつけき男なのだ。リストラされたのか、家を追い出されたのか、何か仕事でヘマでもやったのか。どうせ中年のおじさんか何かで、行き場所がないのだ。
かわいくなんてない。かわいくなんてないはずなのだ。
「やっぱ、オレ、出てこうか?」
首をかしげてクマが言う。
路頭に迷ったクマがずぶぬれになって、道ばたで倒れている姿が目に浮かぶ。
ああ、もう。
遊戯はすっくと立ち上がり、腰に両手をあててクマを見下ろした。
「今日だけだからね」
「きょうだけ?」
「何もしないっていうなら、今日だけおいてあげる。明日、晴れたら出ていって」
バッカじゃないの、ボクは。こいつがどんな人間かもわかんないくせに。もしかしたら寝てる間に殺されるかもしんないくせに。警察を呼べばよかったのに。ヘンなところで仏心を出すなんてホントにバカだよ。
そう思いながらも「ありがとう! ありがとう!」とよろこんで抱きついてくるクマのふかふかした感触に、遊戯は頬がゆるんでしまった。
体温で温まった着ぐるみの感触はほこほこしていて、ゆたんぽか、あたたかい毛布みたいなものを連想させた。
まあ、いいか。根っからの悪人だったら、さっさと金目のものを盗んで逃げてるだろう。
「あのさー、その袋入ったハンバーガー? レンジで温めなおしたほうがいいんじゃねぇ?」
やったげようか?なんて小首をかしげて殊勝なところをみせる。別にそれぐらい自分でできるけどさ。
遊戯は「じゃあ、おねがいするよ」と言ってハンバーガーの袋をクマに渡した。
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